出島散歩(26)-二つの村社(1)
出島の宍倉城(菅谷氏)のあった周りには2つの村社格の神社がある。
今まで日の当たらぬところを掘り起こしてきたが、少しは大きめの神社も歴史を知る上では紹介しなければならないだろう。
ひとつは宍倉にある「鹿島神社」で、もう一つは安食(あんじき)にある「太宮神社」である。
一つずつ取り上げてみるより二つを比べてみると面白そうである。
まずは宍倉鹿島神社である。
県道沿いにあるので、すぐにわかる。大きな木々が茂っているので気になる神社だ。

神社の入口には「宍倉総鎮守」の文字が書かれている。
由緒書きによれば「宍倉・成井・下軽部・上軽部」の四ヶ村の総鎮守というが・・・・
鎮守の森などというようにその土地を守護する神様ということのようだ。
しかし、近くの成井には八坂神社があって、お囃子(ひょっとこ)が有名なのだ。
石岡の祭りにも継承されているように思う。この辺も、もう少し調べる必要もありそうである。

鹿島神社であるので、当然鹿島神宮の神「武甕槌尊(たけみかづちのみこと)」が祀られている。
戦に強い武人の神です。

しかし、この出島地区には「鹿島神社」という神社がたくさんある。これは土地柄なのかもしれないが、その中心となるのはやはり本鹿島と言われる牛渡(うしわた)の鹿島神社(こちら)ではないかと思っている。

こちらが本殿です。江戸時代の延宝元年(1673年)に再建したものとのこと。

由緒書きによれば大同4年(809)の創建だとのこと。
大同年間に創建されたといわれている神社は数知れないが、受け継がれているにはそれなりの理由があるのだろう。
もっとも坂上田村麻呂が蝦夷征伐に勝利して都に戻ったのが802年。
清水寺の地を賜ったのが805年。
その後右近衛大将になったのが大同2年(807年)。
この頃の流れが何かありそうだ。
宍倉地区は室町・戦国時代には「菅谷氏」が支配し、その後佐竹氏、江戸時代になり土浦の土屋氏も影響を及ぼしたと思われるが、どうも水戸黄門(光圀)の名前があちこちに出てくるのを見ると隣の石岡市井関地区等と同じく水戸藩の飛び地だったのかもしれない。
この鹿島神社の南側が「大手(オオデ)」という土地の名前で、宍倉城の大手門側ということか。

狛犬と境内社。
この宍倉鹿島神社の近くに「別雷神社」がある。
これも気になる名前である。
今まで日の当たらぬところを掘り起こしてきたが、少しは大きめの神社も歴史を知る上では紹介しなければならないだろう。
ひとつは宍倉にある「鹿島神社」で、もう一つは安食(あんじき)にある「太宮神社」である。
一つずつ取り上げてみるより二つを比べてみると面白そうである。
まずは宍倉鹿島神社である。
県道沿いにあるので、すぐにわかる。大きな木々が茂っているので気になる神社だ。

神社の入口には「宍倉総鎮守」の文字が書かれている。
由緒書きによれば「宍倉・成井・下軽部・上軽部」の四ヶ村の総鎮守というが・・・・
鎮守の森などというようにその土地を守護する神様ということのようだ。
しかし、近くの成井には八坂神社があって、お囃子(ひょっとこ)が有名なのだ。
石岡の祭りにも継承されているように思う。この辺も、もう少し調べる必要もありそうである。

鹿島神社であるので、当然鹿島神宮の神「武甕槌尊(たけみかづちのみこと)」が祀られている。
戦に強い武人の神です。

しかし、この出島地区には「鹿島神社」という神社がたくさんある。これは土地柄なのかもしれないが、その中心となるのはやはり本鹿島と言われる牛渡(うしわた)の鹿島神社(こちら)ではないかと思っている。

こちらが本殿です。江戸時代の延宝元年(1673年)に再建したものとのこと。

由緒書きによれば大同4年(809)の創建だとのこと。
大同年間に創建されたといわれている神社は数知れないが、受け継がれているにはそれなりの理由があるのだろう。
もっとも坂上田村麻呂が蝦夷征伐に勝利して都に戻ったのが802年。
清水寺の地を賜ったのが805年。
その後右近衛大将になったのが大同2年(807年)。
この頃の流れが何かありそうだ。
宍倉地区は室町・戦国時代には「菅谷氏」が支配し、その後佐竹氏、江戸時代になり土浦の土屋氏も影響を及ぼしたと思われるが、どうも水戸黄門(光圀)の名前があちこちに出てくるのを見ると隣の石岡市井関地区等と同じく水戸藩の飛び地だったのかもしれない。
この鹿島神社の南側が「大手(オオデ)」という土地の名前で、宍倉城の大手門側ということか。

狛犬と境内社。
この宍倉鹿島神社の近くに「別雷神社」がある。
これも気になる名前である。
立地場所で見ると、宍倉では先に紹介された社殿の無い、竹林の中の忘れ去られたような神社(?)が最もそれらしい場所にあります。今回の鹿島社は平らな場所にあるので変だなと思いましたが、Yahoo地図を地形図にして見ると納得。2つの川に挟まれた台地の隘路に建っています。交通の要衝ですね。鎮守社はその土地の者が支配者に気概を見せるところでもあったそうですし、後代に徳川氏が影響を及ぼしたのもこうした地理的要点であることも価値ありとした理由かも、などと想像します。
コメントありがとうございます。
今回記事は消化不良な内容にも関わらず豊富な考察ありがとうございました。
> 神社の立地は多くが台地の突端のような場所に建てられています。
そうですね。昔の地形等を考えながら立地を見てみないといけないですね。
> 私が住んでいる横浜で最も有名な神社である伊勢山皇大神宮もその典型で、
ここは倒産して有名になったところですね。今回は青森の弘前でも神社父さんがありました。
私も横浜にいましたので昔海だったところはすっかり陸地になっています。
昔を知っていると今の姿が全くちがって見えてきます。
野毛山の動物園も何度も行きました。
> 交通の要衝ですね。鎮守社はその土地の者が支配者に気概を見せるところでもあったそうですし、後代に徳川氏が影響を及ぼしたのもこうした地理的要点であることも価値ありとした理由かも、などと想像します。
今は街道としての価値はほとんどなしですが、昔はそれなりに価値もあったのでしょうね。
鉄道や自動車ができる前の生活を今では考えることもできないのかもしれません。