出島散歩(28)-二つの村社(2)
2~3日前に書いた村社の続きです。今日は安食(あんじき)太宮神社です。
「おおみや神社」と読みますが漢字は大宮ではなく太宮が正解です。
この安食(あんじき)という名前ですが、いきさつがよくわかりません。昔安食氏という氏族がいたらしいのですが、これは人の名前は後からで、土地の名前からそう呼ばれるようになったと考えるのが普通です。
ここ石岡の「大掾(だいじょう)氏」は桓武系の平氏で名前は平(たいら)姓ですが、世襲された役職から大掾と呼ばれるようになった珍しい分類に入るものです。
さて、安食の町には「安飾小学校」「安飾郵便局」等という名前がありますが、こちらは「あんしょく」と読むようです。
さてどんな歴史があるのでしょう。
この土地の呼び名を少し紐解いてみたいと思います。
現在はかすみがうら市(2005年)ですが、その前は霞ヶ浦町(1997年)。その前は出島村(1955年)です。
出島村は下大津村、美並村、牛渡村、佐賀村、安飾村、志士庫村が合併してできた村で、この土地は安飾村と呼ばれたようです。
安飾村は明治22年(1889年)の町村制が実施された時に出来た村で、この時には安食村・柏崎村・岩坪村・下軽部村が合併して出来た村で、昔(古代から中世)の郷の名前をつけて「安飾」となったと書かれていました。
すると、「安飾」は古代・中世の名前を復活させた名前だというのですから、こちらのほうが古いのかもしれません。
きっと、それらのことを見てきたのがこの神社なのでしょう。

この神社も県道沿いにありますので、すぐ分かりますが、境内にこの神社の由緒が書かれた説明板がありません。
ネットで調べてみました。
創建は大同元年(806)といわれているそうで、宍戸の鹿島神社より三年早いが・・・。
まあどこもはっきりはわからない。

書かれていたのは県指定文化財の銅製の「鰐口」で直径が33cm程のもので、室町時代初期(1403年の銘がある)の作とされています。

ここでも水戸黄門さんが出てきます。
元禄4年(1690年)に徳川光圀が参拝され、由緒等を聞いて、安食、柏崎、岩坪、堂山、成井横町の五ヶ村の総社とするように命があったそうなのです。
そうすると、やはり宍倉の鹿島神社より古いように思う。
鹿島神社は「水戸光圀によって御神体を寄進され、明治6年に村社となり、宍倉・成井・上軽部・下軽部の四ヶ村の総鎮守となった」
と書かれていたので、昔を調べるならやはりこの太宮神社の方ですね。
前回の宍倉の鹿島神社も街道沿いにありますが、この街道は少し高いところを通っていて、鹿島神社の脇から霞ヶ浦側に下りていく道があります。
その途中に古墳もあるのですが、昔の地形では霞ヶ浦(流れ海)が見下ろせる突端に位置していたようです。
そして、この鹿島神社から安食の太宮神社に来る途中は一旦下に下がってまた高い所へ登っていくような地形で、こちらも少し高台の丘の上なのでしょう。

(上)拝殿の龍の彫り物も見事です。歴史的な何かを感じます。
祭神は「大宮比売命(おおみやひめのもこと)」とその他、国づくりに関係した神様が沢山祀られています。
また御神体は青銅鏡だそうです。何か面白そうな感じがしてきますね。

本殿です。保元元年(1156)2月7日本社造立、天正2年(1574)正月修理の棟札があるそうですので昔は大きな勢力を持っていた神社だったのだと思います。
昔の安食氏についてはよくわかりません。永享7年(1535)に梶原氏の知行地となり、その後小田氏の家臣「菅谷氏」の領地となっていたそうです。
戦国末期に佐竹氏に小田氏が敗れると、水戸光圀の参拝までのしばらくの間荒廃が進んでしまったようです。
さて、この菅谷氏ですが、小田氏が佐竹氏の軍門に降ったあとも土浦城を奪還して最後まで戦って、野へ逃れ、江戸時代になって徳川家康に厚遇され、徳川旗本となって家系は存続したそうです。

文化13年(1816年)に立てられた「1000年記念碑」です。
この碑ができてから既に200年位経つので、1200年の歴史ある神社ということになります。
また境内には明和6年(1769年)の石灯篭もあったようですが、そんなに古いものとは気がつかずに見過ごしてしまいました。

境内にあった道祖神(庚申塔)。60日に1回まわってくる庚申の日に人間の身体にいる三尸(さんし)という虫が悪行を報告に抜け出さないように徹夜で監視したという庚申の行事が行われていたのでしょうか。

さて、この神社も歴史にふさわしい神事(流鏑馬)が旧暦9月19日に行われていたと言いますが、いまは止めてしまったようです。

狛犬もどこかいかにもそれらしい風貌がありますね。
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「おおみや神社」と読みますが漢字は大宮ではなく太宮が正解です。
この安食(あんじき)という名前ですが、いきさつがよくわかりません。昔安食氏という氏族がいたらしいのですが、これは人の名前は後からで、土地の名前からそう呼ばれるようになったと考えるのが普通です。
ここ石岡の「大掾(だいじょう)氏」は桓武系の平氏で名前は平(たいら)姓ですが、世襲された役職から大掾と呼ばれるようになった珍しい分類に入るものです。
さて、安食の町には「安飾小学校」「安飾郵便局」等という名前がありますが、こちらは「あんしょく」と読むようです。
さてどんな歴史があるのでしょう。
この土地の呼び名を少し紐解いてみたいと思います。
現在はかすみがうら市(2005年)ですが、その前は霞ヶ浦町(1997年)。その前は出島村(1955年)です。
出島村は下大津村、美並村、牛渡村、佐賀村、安飾村、志士庫村が合併してできた村で、この土地は安飾村と呼ばれたようです。
安飾村は明治22年(1889年)の町村制が実施された時に出来た村で、この時には安食村・柏崎村・岩坪村・下軽部村が合併して出来た村で、昔(古代から中世)の郷の名前をつけて「安飾」となったと書かれていました。
すると、「安飾」は古代・中世の名前を復活させた名前だというのですから、こちらのほうが古いのかもしれません。
きっと、それらのことを見てきたのがこの神社なのでしょう。

この神社も県道沿いにありますので、すぐ分かりますが、境内にこの神社の由緒が書かれた説明板がありません。
ネットで調べてみました。
創建は大同元年(806)といわれているそうで、宍戸の鹿島神社より三年早いが・・・。
まあどこもはっきりはわからない。

書かれていたのは県指定文化財の銅製の「鰐口」で直径が33cm程のもので、室町時代初期(1403年の銘がある)の作とされています。

ここでも水戸黄門さんが出てきます。
元禄4年(1690年)に徳川光圀が参拝され、由緒等を聞いて、安食、柏崎、岩坪、堂山、成井横町の五ヶ村の総社とするように命があったそうなのです。
そうすると、やはり宍倉の鹿島神社より古いように思う。
鹿島神社は「水戸光圀によって御神体を寄進され、明治6年に村社となり、宍倉・成井・上軽部・下軽部の四ヶ村の総鎮守となった」
と書かれていたので、昔を調べるならやはりこの太宮神社の方ですね。
前回の宍倉の鹿島神社も街道沿いにありますが、この街道は少し高いところを通っていて、鹿島神社の脇から霞ヶ浦側に下りていく道があります。
その途中に古墳もあるのですが、昔の地形では霞ヶ浦(流れ海)が見下ろせる突端に位置していたようです。
そして、この鹿島神社から安食の太宮神社に来る途中は一旦下に下がってまた高い所へ登っていくような地形で、こちらも少し高台の丘の上なのでしょう。

(上)拝殿の龍の彫り物も見事です。歴史的な何かを感じます。
祭神は「大宮比売命(おおみやひめのもこと)」とその他、国づくりに関係した神様が沢山祀られています。
また御神体は青銅鏡だそうです。何か面白そうな感じがしてきますね。

本殿です。保元元年(1156)2月7日本社造立、天正2年(1574)正月修理の棟札があるそうですので昔は大きな勢力を持っていた神社だったのだと思います。
昔の安食氏についてはよくわかりません。永享7年(1535)に梶原氏の知行地となり、その後小田氏の家臣「菅谷氏」の領地となっていたそうです。
戦国末期に佐竹氏に小田氏が敗れると、水戸光圀の参拝までのしばらくの間荒廃が進んでしまったようです。
さて、この菅谷氏ですが、小田氏が佐竹氏の軍門に降ったあとも土浦城を奪還して最後まで戦って、野へ逃れ、江戸時代になって徳川家康に厚遇され、徳川旗本となって家系は存続したそうです。

文化13年(1816年)に立てられた「1000年記念碑」です。
この碑ができてから既に200年位経つので、1200年の歴史ある神社ということになります。
また境内には明和6年(1769年)の石灯篭もあったようですが、そんなに古いものとは気がつかずに見過ごしてしまいました。

境内にあった道祖神(庚申塔)。60日に1回まわってくる庚申の日に人間の身体にいる三尸(さんし)という虫が悪行を報告に抜け出さないように徹夜で監視したという庚申の行事が行われていたのでしょうか。

さて、この神社も歴史にふさわしい神事(流鏑馬)が旧暦9月19日に行われていたと言いますが、いまは止めてしまったようです。


狛犬もどこかいかにもそれらしい風貌がありますね。


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