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霞ヶ浦の水門

 徳川家康は江戸の治水のため、現在の東京湾に注いでいた暴れ川といわれる「利根川」の流れを常陸川に合流させ、銚子の方に変えさせる命令を出した(1590年)。

これは水路で江戸に物資を運ぶためのルート確保の役割もあり、寛文5年(1665年)、境町・関宿間に江戸川を移し権現堂川を締め切ることで、霞ヶ浦や銚子からの物資を関宿を通って江戸川を経由して江戸へ運ぶ水運の大動脈が完成した。

元々は縄文海進でこの香取海流域は湿地帯で稲作もあまり盛んではなかったようだが、この利根川の東遷事業で肥沃な土砂が堆積し、広大な稲作の地帯が出現した。

しかし、利根川の逆流などで各地で洪水は頻繁に発生し、治水対策が明治になっても続けられた。

下の写真は現在の霞ヶ浦や利根川の下流地帯の写真であるが、この利根川等に架かる橋を書き込んでみた。

(写真はサムネルです。クリックで大きくなります)
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大きな橋は下流から「銚子大橋」「利根かもめ大橋」「利根川大橋・常陸川大橋」「小見川大橋・息栖大橋」となっている。

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水門があるのは利根川と常陸川が合流する手前の「利根川大橋・常陸川大橋」のところに設置されています。河口からは18.5km上流にあります。

上の写真は利根川大橋です。この手前側に常陸川大橋があり、こちらも同じような水門が並んでいます。

tonesuimonn.jpg

水門の東側(海側)は波が押し寄せても水門の上流側には水流の逆流がない。
この道路の上から見ると左右でその違いがすぐにわかるほどだ。
この道路は利根川と常陸川に挟まれたデルタ地帯のちょうど一番先端に当たる。

この水門は昭和40年(1965年)12月に着工し、昭和46年(1971年)1月に完成している。
最大の目的は塩分濃度の調節(水田の塩害防止)にあるそうです。

それまでは利根川の香取付近や霞ヶ浦の北浦などで塩害の被害が度々あったそうです。

水門は自動制御され、自家発電施設も備えており、停電時も確実に制御されているとともに、今まで地震でも問題になったことはないという。

川の水量が多く洪水の心配があるときは全ての水門が全開となるが、利根川流域の洪水防止は堤防の整備もさることながら昭和3年に完成した利根川上流の権現堂川を仕切って廃川として調整池の役割を持たせたことも大きいようです。

でも、この水門が出来てから霞ヶ浦の自然環境は大きく変わってしまいました。
ウナギなどの海からの遡上が仕切られてしまったことや、霞ヶ浦の漁や湖岸に生える植物等も大きな変化があったといいます。

少しずつでも理解してどうするのが私たちにとって良いのかも考えてみたい。

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この上の写真は2000年に完成した有料(普通車200円)の「利根かもめ大橋」です。

ここから10km程海寄りの銚子大橋の交通量が多く、この混雑緩和を狙ったそうですが、有料であるため通行量は1日4000台に満たないそうだ。
都市の中心部を通らない中途半端な有料の橋のため、見たときも通行する車は少ないように見えた。

元々銚子大橋が完成したのは昭和37年(1962)で、当初は有料道路だった。
この料金は30年で償還する予定が、通行料が増えて12年後の昭和49年(1974)に無料となった。
通行量は現在1日に約26000台あるという。

かもめ大橋はできたのだが、あまり通行量はなく、こちらの銚子大橋は交通の動脈となっている。
その銚子大橋も1年程前に行った時には架け替えの工事をしていた。

現在は新しい銚子大橋が2010年12月に一部が開通し、今年春には全線開通するはずである。

霞ヶ浦の西側に二橋を架ける運動が行われていることは先日書いたが、このような他の橋やその歴史等も見ておく必要がありそうだ。

それにしてもこの利根川下流地帯は水田が一面に広がっていて、今では大きなコメの産地になっていると思う。
詳しいことは分からないが、米の戸別所得補償制度等に対する取り組み方を見る時、この地帯の動きも興味深い気がします。

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霞ケ浦水運 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/05/07 18:21
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