玉里地区-素鵞神社
今日は雨で気温も下がり寒かったですね。
朝から銚子に出かけて今戻ったところ。
片道2時間以上かかるので、こんな雨の日は車を運転するのも疲れます。無事帰ってやれやれです。
利根川と常陸川の合流するあたりは水かさも増えて水面まで近くて怖いくらいでした。
さて今日は、牛久から離れて、少し前に行った石岡の近くの「玉里(たまり)」の話題です。
石岡の隣小美玉市は小川・美野里・玉里が合併してそれぞれの頭文字をとって付けられた市です。
これもできたばかりの時はどこか滑稽さも伴って巷の話題を提供してくれた。
今となってはまあしかたないし、慣れればそれなりの定着感も出てきている。
しかし歴史的な名前が変わるとそこに伝わってきた歴史のもつ継続性がかなり薄くなってしまう。
この玉里という地名もかなり昔からの話がつながってきた名前だと思う。
前にこの玉里地区に素鵞(そが)神社があることを述べてました。
最初は霞ヶ浦水運で高浜から続く高崎地区の恵比寿神社を取り上げた時に「西の宮」と呼ばれるので、東の宮はここ玉里の素鷲神社ではないかと書いたのです(こちら)。
もう一回はつい先日の出島散歩で最後の方に紹介した絵馬が奉納されていた「柏崎素鵞神社」(こちら)で対岸側の素鵞神社との関係も気になっていました。
もっとも、この素鵞神社は、玉里ばかりではなく小川や玉造にも比較的大きな素鵞(そが)神社があり祭りも盛んだと聞いている。
しかし、何となく気になっていた玉里にある素鵞神社に行ってみました。
地図にも載っているし、行けばすぐわかると思ってその前まで行って驚きました。

どうです。これが素鵞神社のようです。
看板も何もありませんが、他にそれらしきものはありません。
通りに沿ったところにお堂が立っているだけです。

お堂の入口は少し開けていて、古い石段があります。
お堂の中を覗いてみました。昔お祭りに使われたかもしれない小さな神輿が一つ保管されていました。

この素鵞神社のお堂の後ろ側に少し離れて、もう一つお堂らしき小屋があります。
近づいてよく見ると、消えかかったような字で「昭和三十六年二月二十日 岩谷観世音修繕寄付者名」とあり、名前が連名で書き込まれていました。

その観世音堂の横にこのような石像がほったらかしの状態で置かれていました。

今でもちゃんと神社として残っているとばかり思ったのですが、どうやらこれが歴史なのかもしれませんね。
玉里の旧町役場(現市役所支所)の前に「大宮神社」という大きな神社があります。
この素鵞神社はこの大宮神社に合祀され、今ではここには神社としては祀られていないようです。
さて、この玉里という名前は岩手県奥州市にもあり、坂上田村麻呂が蝦夷のアテルイと戦った近くにもあるようですし、アテルイたちが潜んでいた岩窟には観音堂が建てられた。
この観音堂もその頃からあるのだろうか? 当然このお堂がそんなに昔からあるとは思えない。
それにしてもこの周りの素鵞(そが)神社は結構祭りも盛んなところも多く、同じ小美玉市の旧小川地区や行方市の玉造地区にもあるが、もしかしたら一番古いかもしれない玉里地区の神社は消えていってしまうのかもしれません。
この玉里という名前はヤマトタケルが行方の方からこちらへやってきて井戸を掘らせたら清らかな水が湧き出したので「みずがたまれるところ=田餘(たまり)」といったということからだととされるが、岩手県の玉里地名等を考えるともう少しちがった解釈もありそうに思う。
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朝から銚子に出かけて今戻ったところ。
片道2時間以上かかるので、こんな雨の日は車を運転するのも疲れます。無事帰ってやれやれです。
利根川と常陸川の合流するあたりは水かさも増えて水面まで近くて怖いくらいでした。
さて今日は、牛久から離れて、少し前に行った石岡の近くの「玉里(たまり)」の話題です。
石岡の隣小美玉市は小川・美野里・玉里が合併してそれぞれの頭文字をとって付けられた市です。
これもできたばかりの時はどこか滑稽さも伴って巷の話題を提供してくれた。
今となってはまあしかたないし、慣れればそれなりの定着感も出てきている。
しかし歴史的な名前が変わるとそこに伝わってきた歴史のもつ継続性がかなり薄くなってしまう。
この玉里という地名もかなり昔からの話がつながってきた名前だと思う。
前にこの玉里地区に素鵞(そが)神社があることを述べてました。
最初は霞ヶ浦水運で高浜から続く高崎地区の恵比寿神社を取り上げた時に「西の宮」と呼ばれるので、東の宮はここ玉里の素鷲神社ではないかと書いたのです(こちら)。
もう一回はつい先日の出島散歩で最後の方に紹介した絵馬が奉納されていた「柏崎素鵞神社」(こちら)で対岸側の素鵞神社との関係も気になっていました。
もっとも、この素鵞神社は、玉里ばかりではなく小川や玉造にも比較的大きな素鵞(そが)神社があり祭りも盛んだと聞いている。
しかし、何となく気になっていた玉里にある素鵞神社に行ってみました。
地図にも載っているし、行けばすぐわかると思ってその前まで行って驚きました。

どうです。これが素鵞神社のようです。
看板も何もありませんが、他にそれらしきものはありません。
通りに沿ったところにお堂が立っているだけです。

お堂の入口は少し開けていて、古い石段があります。
お堂の中を覗いてみました。昔お祭りに使われたかもしれない小さな神輿が一つ保管されていました。

この素鵞神社のお堂の後ろ側に少し離れて、もう一つお堂らしき小屋があります。
近づいてよく見ると、消えかかったような字で「昭和三十六年二月二十日 岩谷観世音修繕寄付者名」とあり、名前が連名で書き込まれていました。

その観世音堂の横にこのような石像がほったらかしの状態で置かれていました。

今でもちゃんと神社として残っているとばかり思ったのですが、どうやらこれが歴史なのかもしれませんね。
玉里の旧町役場(現市役所支所)の前に「大宮神社」という大きな神社があります。
この素鵞神社はこの大宮神社に合祀され、今ではここには神社としては祀られていないようです。
さて、この玉里という名前は岩手県奥州市にもあり、坂上田村麻呂が蝦夷のアテルイと戦った近くにもあるようですし、アテルイたちが潜んでいた岩窟には観音堂が建てられた。
この観音堂もその頃からあるのだろうか? 当然このお堂がそんなに昔からあるとは思えない。
それにしてもこの周りの素鵞(そが)神社は結構祭りも盛んなところも多く、同じ小美玉市の旧小川地区や行方市の玉造地区にもあるが、もしかしたら一番古いかもしれない玉里地区の神社は消えていってしまうのかもしれません。
この玉里という名前はヤマトタケルが行方の方からこちらへやってきて井戸を掘らせたら清らかな水が湧き出したので「みずがたまれるところ=田餘(たまり)」といったということからだととされるが、岩手県の玉里地名等を考えるともう少しちがった解釈もありそうに思う。


相変わらず、‘民族的歴史’の掘り起こしに感嘆します。
玉里は石岡の人間だった私の耳によく聞こえてきた地名で、なつかしく思います。子供のころ聞いたその音は「タマリ」ではなくて「ターマリ」とか「タアマリ」という、最初の音が伸びる発音でした。子供の自分からして老人の人たちの発音がそのように聞こえました。それが単なる方言だったのか、それとも古くからのそう呼ばれる土地だったのか、わかりませんが。
いずれにしてもヤマトタケル云々の話よりも、その音に歴史が秘められていたように感じます。それも今となっては確かめる人は居らず、玉里村の名自体なくなってしまっては今後も分かるすべはないのでしょう。
懐かしさにコメントしました。
そういえば玉里村は田余(たあまり)と何処そこが合併して出来た、とありました。
自分が聞いたのはこの旧地名だっただけかも。
しかしこの地の神社の土地は園部河の氾濫原に突き出した高台という典型的な神社立地に建っているので、歴史はありそうですね。
> 相変わらず、‘民族的歴史’の掘り起こしに感嘆します。
相変わらずですが、ネタ切れで苦労しています(笑)
私は昔は漢字から玉(勾玉)の採れた里なのかと思っていましたが、
田餘(余)と書いていたらしいですので「たあまり」というのは正解ですね。
> いずれにしてもヤマトタケル云々の話よりも、その音に歴史が秘められていたように感じます。それも今となっては確かめる人は居らず、玉里村の名自体なくなってしまっては今後も分かるすべはないのでしょう。
> 懐かしさにコメントしました。
石岡とは隣町ですし歴史もつながっていますね。
鹿島鉄道がなくなるとこんなところでもつながっている糸が切られるような気になります。
霞ヶ浦沿いはレンコン畑が広がっていますが、すぐ台地になっていますね。
きっとこの神社も昔からあったものだと思います。
コメントありがとうございます。(追信もいただきました)
玉里に素鷲神社があるのは知りませんでした。
小美玉市小川の素鷲神社は、なかなか味のある場所ですよ。
よろしければお訪ねください。
7月20日頃にはお祭りもあります。
> 小美玉市小川の素鷲神社は、なかなか味のある場所ですよ。
> よろしければお訪ねください。
> 7月20日頃にはお祭りもあります。
そのようですね。2年前に480年祭をやっていますね。
小川も面白そうなところがありそうです。
近くを通ったことはあるのですが、今度行ってみます。