女化神社(2)-奥の院
昨日紹介した女化(おなばけ)神社の続きです。
昨日書きましたが、この神社があるのは牛久市のなかにある龍ケ崎市の飛び地です。
(地図は昨日の記事を見てください)
馴馬(なれうま)町という龍ケ崎市の地名にあるが、ここにも中世には「馴馬城」という城があった。
戦国期は江戸崎の土岐氏の勢力下となり、佐竹氏部下の多賀谷氏に攻められ領地が多賀谷氏に渡るが、佐竹氏の秋田移封で、しばらく後にこの辺り一帯(龍ヶ崎)は仙台の伊達政宗の領地になった。
仙台藩ですから、これこそ本当に飛び地ですね。この辺の領地区分と関係しているのかもしれません。
さて、地図を見ると「女化神社」の位置がこの神社のある位置よりかなり北に示されています。
その場所は牛久市です。
調べてみると、そこには女化神社の奥の院が置かれているというので、日を改めて訪れてみました。
神社の拝殿裏側にもう一つ大きな鳥居があり、通りに面しています。
そしてその先に細い道が畑から住宅地の方に続いています。

こちらが神社の後ろ側(通り側)の鳥居。この鳥居をくぐって奥の院とつながっていたのでしょう。

神社から400mほど北に行ったところに少しこんもりとした木が茂った場所があり、その入口に写真のような鳥居と狐像が置かれています。
この鳥居は大きなものではありません。人が一人くぐるのがやっとといった小さなものです。
地図に女化神社と大きく表示された場所の割には質素なものです。

そして、鳥居をくぐり林の中に入っていくと少し開けた場所の木々の周りにたくさんの狐たちがいました。

これが奥の院です。狐像に守られて鳥居があり、その隣には「天照大神」の石柱が建っていました。
これはこの地を開拓した徳島の人たちが立てたようです。(明日、この開拓者の話をしましょう)

そして、そのすぐ隣の土がこんもりとした場所の周りにはいくつもの狐像がこの場所を守っています。

それにしても、おかしな空間です。もしかしたらこれが女化神社の元の姿なのかもしれません。
昔からこの辺は「女化ヶ原」と言われていました。しっぽを出してしまい姿を知られた狐はこの奥の院あたりの茂みの中に消えていったのでしょう。
(狐の恩返しとか狐の嫁入りなどと言われる話です)
この女化ヶ原は明治に入って広い敷地が広がっていたので陸軍の実弾発砲訓練場となります。
その後徳島県から入植者が何人も入ってきて開墾したそうです。
一見するとその昔には何もない広々したところのように思われますが、とても気になるところがたくさんあります。
この女化町は、土浦から龍ケ崎に行くのに6号国道を通らずに行く道(県道48号線)が通っています。
今は新しい道路ができたり、バイパス道路などが次々に出来て、この旧48号線は通らなくなりましたが、今から30年ほど前には牛久や龍ケ崎に行くのに何度も通りました。
道が狭く車もすれ違うのがやっとのところも多く、地元の方以外にはあまり使われなくなりましたが、昔の街道を理解する上にはとても重要な道だと思います。
前から宿題になっている「古東海道」や「佐竹街道」、そして「若柴宿」、「布施街道」などもこの道を考慮しておかないと理解できないように思います。
このことはまたあらためて紹介したいと思います。
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昨日書きましたが、この神社があるのは牛久市のなかにある龍ケ崎市の飛び地です。
(地図は昨日の記事を見てください)
馴馬(なれうま)町という龍ケ崎市の地名にあるが、ここにも中世には「馴馬城」という城があった。
戦国期は江戸崎の土岐氏の勢力下となり、佐竹氏部下の多賀谷氏に攻められ領地が多賀谷氏に渡るが、佐竹氏の秋田移封で、しばらく後にこの辺り一帯(龍ヶ崎)は仙台の伊達政宗の領地になった。
仙台藩ですから、これこそ本当に飛び地ですね。この辺の領地区分と関係しているのかもしれません。
さて、地図を見ると「女化神社」の位置がこの神社のある位置よりかなり北に示されています。
その場所は牛久市です。
調べてみると、そこには女化神社の奥の院が置かれているというので、日を改めて訪れてみました。
神社の拝殿裏側にもう一つ大きな鳥居があり、通りに面しています。
そしてその先に細い道が畑から住宅地の方に続いています。

こちらが神社の後ろ側(通り側)の鳥居。この鳥居をくぐって奥の院とつながっていたのでしょう。

神社から400mほど北に行ったところに少しこんもりとした木が茂った場所があり、その入口に写真のような鳥居と狐像が置かれています。
この鳥居は大きなものではありません。人が一人くぐるのがやっとといった小さなものです。
地図に女化神社と大きく表示された場所の割には質素なものです。

そして、鳥居をくぐり林の中に入っていくと少し開けた場所の木々の周りにたくさんの狐たちがいました。

これが奥の院です。狐像に守られて鳥居があり、その隣には「天照大神」の石柱が建っていました。
これはこの地を開拓した徳島の人たちが立てたようです。(明日、この開拓者の話をしましょう)

そして、そのすぐ隣の土がこんもりとした場所の周りにはいくつもの狐像がこの場所を守っています。

それにしても、おかしな空間です。もしかしたらこれが女化神社の元の姿なのかもしれません。
昔からこの辺は「女化ヶ原」と言われていました。しっぽを出してしまい姿を知られた狐はこの奥の院あたりの茂みの中に消えていったのでしょう。
(狐の恩返しとか狐の嫁入りなどと言われる話です)
この女化ヶ原は明治に入って広い敷地が広がっていたので陸軍の実弾発砲訓練場となります。
その後徳島県から入植者が何人も入ってきて開墾したそうです。
一見するとその昔には何もない広々したところのように思われますが、とても気になるところがたくさんあります。
この女化町は、土浦から龍ケ崎に行くのに6号国道を通らずに行く道(県道48号線)が通っています。
今は新しい道路ができたり、バイパス道路などが次々に出来て、この旧48号線は通らなくなりましたが、今から30年ほど前には牛久や龍ケ崎に行くのに何度も通りました。
道が狭く車もすれ違うのがやっとのところも多く、地元の方以外にはあまり使われなくなりましたが、昔の街道を理解する上にはとても重要な道だと思います。
前から宿題になっている「古東海道」や「佐竹街道」、そして「若柴宿」、「布施街道」などもこの道を考慮しておかないと理解できないように思います。
このことはまたあらためて紹介したいと思います。


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