雷電山古墳と経塚(玉里)
もうだいぶ前になりますが、経塚(きょうづか)という場所をいくつか紹介してきました。(こちら)
小美玉市の旧玉里村地区を散策していて、また一つ見つけました。
玉里の旧役場の方から先日紹介した素鷲神社の方に曲がってすぐです。
幼稚園等も経営する大きな寺「照光寺」の入口にあります。

中心地から少し素鷲神社の方に行くと直ぐに左手にこんもりとした木々の生い茂る場所があり、そこに地蔵像等が置かれています。
この辺は(玉里)船塚古墳という6世紀前半の古墳がある場所です。、

その反対側(右側)には大きなお寺があります。「照光寺」と書かれており大きな観音像が置かれていました。
今日のテーマはこの入口の門の右手にこんもりとした山があります。
これが雷電山と言われる古墳だそうです。

小山の上にお宮があり、鳥居をくぐって石段を登るようになっています。
しかし、5~6年前の写真を見るとこの鳥居は無いようですので、最近作られたもののようです。

若葉の碧がきれいにはえて、気持ちがいいです。最近整備したようです。

お宮の入口の左右には風神・雷神像が置かれています。これも新しいようです。

絵馬もたくさん置かれています。

石階段の登り口にあった看板に、ここの「経塚」の説明が載っていました。
とても興味深い内容です。
末法思想が流行った室町時代に各地でお経を筒などに入れて、世の中が復活した時まで残しておこうとしたものです。
面白いのはお経を経筒に入れ、更に壺の中に入れて埋めたということですね。
常滑は有名なので焼き物は知っていますが、渥美の壺というのはあまり聞いたことがありません。
調べてみると、この渥美の古窯というのは、とても大変なもののようです。
国宝もあるそうですので、こんなところに何故あるのかが不思議です。
村(今では小美玉市)の文化財とのことですがもう少し詳しく調べたほうが良いのではないかと思います。
鎌倉時代初期ということで、室町より前ですのでかなり貴重なものではないかと思われます。
この辺の豪族が渥美半島の窯元に壺を作ってもらったのでしょう。看板の写真では壺の模様がよくわからないので、いつか調べてみたくなりました。

さて、ここにある照光寺は浄土宗の寺院で、古い山門が残されています。
現地の説明文によれば
「平成9年の解体修理工事の時に、墨書が発見され、江戸時代の寛文2年(1662)に府中町(現石岡市)の大工竹澤茂太夫が建て、その23年後に修理されたことがわかる」
となっています。大工の名前がわかる珍しいものだそうです。

本堂は再建しているのか、工事中でした。
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小美玉市の旧玉里村地区を散策していて、また一つ見つけました。
玉里の旧役場の方から先日紹介した素鷲神社の方に曲がってすぐです。
幼稚園等も経営する大きな寺「照光寺」の入口にあります。

中心地から少し素鷲神社の方に行くと直ぐに左手にこんもりとした木々の生い茂る場所があり、そこに地蔵像等が置かれています。
この辺は(玉里)船塚古墳という6世紀前半の古墳がある場所です。、

その反対側(右側)には大きなお寺があります。「照光寺」と書かれており大きな観音像が置かれていました。
今日のテーマはこの入口の門の右手にこんもりとした山があります。
これが雷電山と言われる古墳だそうです。

小山の上にお宮があり、鳥居をくぐって石段を登るようになっています。
しかし、5~6年前の写真を見るとこの鳥居は無いようですので、最近作られたもののようです。

若葉の碧がきれいにはえて、気持ちがいいです。最近整備したようです。

お宮の入口の左右には風神・雷神像が置かれています。これも新しいようです。

絵馬もたくさん置かれています。

石階段の登り口にあった看板に、ここの「経塚」の説明が載っていました。
とても興味深い内容です。
末法思想が流行った室町時代に各地でお経を筒などに入れて、世の中が復活した時まで残しておこうとしたものです。
面白いのはお経を経筒に入れ、更に壺の中に入れて埋めたということですね。
常滑は有名なので焼き物は知っていますが、渥美の壺というのはあまり聞いたことがありません。
調べてみると、この渥美の古窯というのは、とても大変なもののようです。
国宝もあるそうですので、こんなところに何故あるのかが不思議です。
村(今では小美玉市)の文化財とのことですがもう少し詳しく調べたほうが良いのではないかと思います。
鎌倉時代初期ということで、室町より前ですのでかなり貴重なものではないかと思われます。
この辺の豪族が渥美半島の窯元に壺を作ってもらったのでしょう。看板の写真では壺の模様がよくわからないので、いつか調べてみたくなりました。

さて、ここにある照光寺は浄土宗の寺院で、古い山門が残されています。
現地の説明文によれば
「平成9年の解体修理工事の時に、墨書が発見され、江戸時代の寛文2年(1662)に府中町(現石岡市)の大工竹澤茂太夫が建て、その23年後に修理されたことがわかる」
となっています。大工の名前がわかる珍しいものだそうです。

本堂は再建しているのか、工事中でした。


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