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四つの佐志能神社(4)

 雪が積もってここ数日出かけることもないので、過去の記事などを整理していたら1年半ほど前に書いていた下書き記事が出て来た。
これはもう1年半ほど前に書いていた4回シリーズの最後にあたるのだが結局書きかけで終わってしまっていた。
前に書いた記事などを続けて読みたい方は →こちら にまとまっていますのでクリックして見て下さい。
 
では以下1年半前の続きです。・・・

石岡市にある佐志能神社を3箇所紹介しましたが、もう一つの笠間にある佐志能神社を紹介します。

これは2011年9月に笠間城跡をシリーズで紹介をした時、最後に紹介しております(こちら)ので同じことをまた紹介することになりますがご容赦ください。

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笠間の佐白山の城跡の天守閣のあたり、山の一番高い岩の上にこの神社が祀られています。

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岩場の上なので神社も地震などで危うくなりまわりに近付けなくなってしまいましたが、これももう2年以上前の事。
最近は行っていないのでどうなったであろうか。

鎌倉時代の初め、笠間の佐白山には正福寺という寺があり、百坊と呼ばれた数の僧兵を抱えていたそうです。

これが七会村(城里町)の徳蔵寺(記事はこちら)の三百坊の僧兵と争いを繰り返しておりました。
そこに宇都宮の藤原家より藤原時朝が乗り込んできて、徳蔵寺の僧兵を滅ぼし、佐白山に城を築きます。
そして時朝は笠間時朝となり、笠間氏が誕生しました。

これは1220年頃のことです。

そしてこれも前に書きましたが、この佐志能神社は、ここに笠間城が建てられた時に、祠を下市毛字田宿(黒袴)に遷されたといいます。ですから1220年より前にこの山の上にあったことになります。

そして、明治になり笠間城が廃城となってから元の位置に戻されたそうです。(明治5年)

さて茨城県に28座の神社がのっている延喜式(927年)の式内社に佐志能神社があります。
これが4つ(笠間、村上、染谷、柿岡)のうちどれをさしているのかは定かではありませんがそれぞれ元は一つなのかもしれません。

どれも山の頂上や中腹にありますが村上は山の麓です(但し奥宮が山の中腹にある)。

最初はこれらの4つの神社の共通点を見て見たいとブログ記事を書き出していたことを思い出しました。
そして書き続けることが出来なくなり、最後のまとめが出来ずに1年半も放置してしまったのです。

これだけ時間が経ちましたがやはり書く事が出来ません。そのためこの記事は一旦終了させて戴きましょう。

さて、最後にこの記事を書きはじめる時になんとなく頭に浮かんでいた気になっているお話をさせていただこうと思います。
それは常陸風土記の那賀郡のところに書かれている「くれふし山の蛇」という説話です。

「茨城の里は、北に高い丘があり、くれふしの山といふ。
 この里に、昔、ヌカヒコ・ヌカヒメといふ兄妹がゐた。
ある夜、ヌカヒメが寝床にゐると、名も知らぬ男がゐて求婚し、朝帰っていった。
一晩で夫婦となり、やがて子ができたが、生まれた子は小さな蛇だった。
 蛇の子は、昼は押し黙ったままで、夜になるとヌカヒメに語りかけた。
ヌカヒメと兄は、神の子ではないかと驚き、清めた杯に蛇を寝かせて、土の祭壇の上に安置した。
ところが、次の夜には、杯からはみ出すほどの大きさになってゐた。
そこで、もっと大きな平瓮に移しかへたが、次の夜には更に大きくなってゐた。
こんなことを何度も繰り返してゐるうちに、家にあるどの器も合はなくなってしまった。
 ヌカヒメは、「あなたの不思議な力を見てゐると神の子なのだといふことがよくわかります。
わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところにお行きなさい。」
と蛇の子にいふと、蛇の子は悲しんで泣いて、涙を拭ひながら「おっしゃるとほりですので、お言葉にしたがひます。
けれど一人で旅をするのはかなはぬことですから、できればもう一人の子どもとともに行かせてください。」
といった。
ヌカヒメが「わたしの家には、わたしと兄しかゐません。
見ればわかるでせう。あいにく誰も一緒には行けません。」
といふと、蛇の子はうらめしさうに口をつぐんだ。
 別れのときになって、蛇の子は怒りを押さへきれず、雷の姿になって、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。
蛇の子が眠った器は、今も片岡の村にある。兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかった。」(口訳・常陸国風土記より)

実はこの話と全くそっくりな話がこの石岡に伝わっています。龍神山の麓の「片岡」地区です。
この石岡の片岡に伝わる話はくれふし山が龍神山になります。

今ではくれふし山は水戸市の「朝房山」と考える意見が主流ですが、石岡の竜神山もその候補地の一つなのです。

茨城の名前の起こりが笠間市小原であったと考えているが、これが6~7世紀頃に現在の石岡市茨城(ばらき)の地に移った時に、この佐志能神社もまた龍神山を囲む地に移ってきたのではないかと思う。

村上の佐志能神社は昔は村上神社といい、龍神山も村上山と言っていたともいう。
どのような経緯で行政の中心地を移したのか? またそれに伴って文化や習慣なども移転したのだと考えている。

これを茨城の県名発祥の地などということだけを大々的に自慢するようなことは私には恥ずかしくてできない。

そのような事を何時までも行っていたら、どのように文化が継承されてきたのかなどを考えることもできない事になってしまう。

まあきれいなバラ(茨)が咲いていた素敵な地であると思いたいなら、特にそれに対して私から言うことは何もない。

ゴーストライターの作った音楽も良い音楽かどうかは私はわからないが、「広島、原爆、耳が聞こえないなどのごまかしの要素で判断が下されたと」わかって見ればとんだ茶番劇であった。

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佐志能神社 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/02/11 16:37
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