稲敷散歩(1)ー茨城百景(江戸崎)
土浦から国道125号線を走り美浦村を過ぎたあたりから成田方面に進むと江戸崎の街を通る。
しかし、中世では城があった場所で中心地の道路はどこもクランクのように曲がっている。
このため、あとからできた県道等の車の多くがこの街の中心地は通らない。
古代の地形や道を調べているとこの江戸崎(現稲敷市)の街はとても興味深いのだが、中心街は一度も行ったことがなかった。
やはり一度探索しておかないとこの辺の様子を理解することができなそうです。
先日やっと念願叶って、一度訪れたので、少しずつ考察しながら景色等を楽しんでみたいと思います。
江戸崎というと「かぼちゃ」が有名ですが、何故ここにかぼちゃが取れるようになったのでしょうか?
このあたりはまた散策を進めていくうちに調べてみたい。
まずは、茨城百景として、この江戸崎が前に紹介した「古渡(ふっと)の湖畔」と並んで「江戸崎の景」が選定されているのです。
美浦の方から成田方面に県道49号線が走っているが、江戸崎の街に行くには途中から左に入っていく道がある。
この道のまだ市街地に行く手前の江戸崎の入口にこの碑が立っています。

道路沿いに石柱の碑が少し離れて二つ置かれている。

ひとつは景勝江戸崎八景「吹上の秋月」とあります。江戸崎の景観の中で八箇所の指定があるようです。
それぞれ八景には歌が添えられていてここは「月色玲瓏(れいろう)たり吹上の秋」です。

向かって右側には「茨城百景 江戸崎の景」となっています。
さて、ではどんなすばらしい景色が見られるのでしょうか?

木々の間から一面の田んぼが広がっています。
これが百景??

この下に広がる一面の田は、「稲波干拓」と言われる場所なのです。
この江戸崎八景も茨城百景も今の姿で考えることができないのです。
名物の松の木も枯れてしまったそうです。
これを昔の姿で捉えてみると、そこには古代のロマンの景色が広がるのです。

茨城百景の碑の裏側には「昭和25年」の文字を読むことができます。
そこで「稲波干拓」が出来た時を調べてみました。
昭和14年(1939)に干拓事業が始まり昭和32年(1955)に完成した一大事業で235haの面積の穀倉地帯ができたそうです。
その前はというとここには大きな「榎の浦」という霞ヶ浦につながる入江のような場所があったのです。

昔の地形を想像するために前にもやっている「Flood Map」で水面を+3mとしてみました。
現在の地図は下に示しますので比較してみてください。
この眼下には穏やかな水面が広がっていたのです。
この「稲波干拓」の場所は今でも貴重な鳥の宝庫だそうです。
特に「オオヒシクイの越冬地」としては関東唯一だそうです。
下に降りて水路脇の道を走りましたが、とてもゆったりとのんびりした風情が広がっていました。
ところで「江戸崎」の名前の謂れが気になりますが、私はここに来る前まで江戸の名前の由来と同じこの小野川が霞ヶ浦に注ぐ戸口で「江戸」そこに飛び出した岬だとばかり思っていました。
しかし、この場所に立って眺めていたらこの考えは違うと思えてきました。
「榎の浦の津」(常陸国風土記)→「榎ヶ浦崎」→「江戸崎」に違いないと考えるようになりました。
まあどれが本当かはわかりませんが、昔ここから水面に映る秋の月を眺めた風情を思い浮かべて佇んでしまいました。
← よろしければクリックお願いします。
しかし、中世では城があった場所で中心地の道路はどこもクランクのように曲がっている。
このため、あとからできた県道等の車の多くがこの街の中心地は通らない。
古代の地形や道を調べているとこの江戸崎(現稲敷市)の街はとても興味深いのだが、中心街は一度も行ったことがなかった。
やはり一度探索しておかないとこの辺の様子を理解することができなそうです。
先日やっと念願叶って、一度訪れたので、少しずつ考察しながら景色等を楽しんでみたいと思います。
江戸崎というと「かぼちゃ」が有名ですが、何故ここにかぼちゃが取れるようになったのでしょうか?
このあたりはまた散策を進めていくうちに調べてみたい。
まずは、茨城百景として、この江戸崎が前に紹介した「古渡(ふっと)の湖畔」と並んで「江戸崎の景」が選定されているのです。
美浦の方から成田方面に県道49号線が走っているが、江戸崎の街に行くには途中から左に入っていく道がある。
この道のまだ市街地に行く手前の江戸崎の入口にこの碑が立っています。

道路沿いに石柱の碑が少し離れて二つ置かれている。

ひとつは景勝江戸崎八景「吹上の秋月」とあります。江戸崎の景観の中で八箇所の指定があるようです。
それぞれ八景には歌が添えられていてここは「月色玲瓏(れいろう)たり吹上の秋」です。

向かって右側には「茨城百景 江戸崎の景」となっています。
さて、ではどんなすばらしい景色が見られるのでしょうか?

木々の間から一面の田んぼが広がっています。
これが百景??

この下に広がる一面の田は、「稲波干拓」と言われる場所なのです。
この江戸崎八景も茨城百景も今の姿で考えることができないのです。
名物の松の木も枯れてしまったそうです。
これを昔の姿で捉えてみると、そこには古代のロマンの景色が広がるのです。

茨城百景の碑の裏側には「昭和25年」の文字を読むことができます。
そこで「稲波干拓」が出来た時を調べてみました。
昭和14年(1939)に干拓事業が始まり昭和32年(1955)に完成した一大事業で235haの面積の穀倉地帯ができたそうです。
その前はというとここには大きな「榎の浦」という霞ヶ浦につながる入江のような場所があったのです。

昔の地形を想像するために前にもやっている「Flood Map」で水面を+3mとしてみました。
現在の地図は下に示しますので比較してみてください。
この眼下には穏やかな水面が広がっていたのです。
この「稲波干拓」の場所は今でも貴重な鳥の宝庫だそうです。
特に「オオヒシクイの越冬地」としては関東唯一だそうです。
下に降りて水路脇の道を走りましたが、とてもゆったりとのんびりした風情が広がっていました。
ところで「江戸崎」の名前の謂れが気になりますが、私はここに来る前まで江戸の名前の由来と同じこの小野川が霞ヶ浦に注ぐ戸口で「江戸」そこに飛び出した岬だとばかり思っていました。
しかし、この場所に立って眺めていたらこの考えは違うと思えてきました。
「榎の浦の津」(常陸国風土記)→「榎ヶ浦崎」→「江戸崎」に違いないと考えるようになりました。
まあどれが本当かはわかりませんが、昔ここから水面に映る秋の月を眺めた風情を思い浮かべて佇んでしまいました。


コメント