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稲敷散歩(24)-信太小太郎伝説その1

 信太(しだ)小太郎は、稲敷の隣の美浦村にある「劇団宙(そら)の会」という市民劇団の演目「信太の小笛」で名前を知った。
これはこの会の創設者である元美浦村村長の市川紀行さんの創作物語ですが、この地に伝わる信太小太郎の伝説がモチーフになっている。

調べてみると確かに面白い話だと思う。

平将門は平国香の部下だったとも言われる(今の美浦村の)豪族大須賀内記の娘苅萱姫(さくらひめ)を妻に迎える。
しかし、平国香との戦で、国香が死に都から将門追討の命が下り、戦況が激しくなった時に苅萱姫は実父の大須賀家に身を寄せます。
この時苅萱姫は将門の子を身ごもっており、美浦村大須賀にある来迎院で将門の子供を産みます。

この将門の子はこの地で育ち、その子供(将門の孫)信田文国(ふみくに)が信太の国を治める領主となります。

その文国の子が小太郎ですが、小太郎が生まれてすぐに父文国は他界してしまいます。
小太郎の上には姉がおり、「小山の太郎行重」に嫁いでいましたが、行重が力を持ってきて、領地全体を奪った上に、小太郎と母親を追い出してしまいます。

ここから小太郎の流浪の旅が始まります。そして行重に嫁いでいた姉もその後、家を追い出され、小太郎を探して行きます。

小太郎は森鴎外が書いた「山椒大夫」の安寿と厨子王にでてくるような人買いあい、あちこち売られて苦労を重ねます。
そして、陸奥の国の塩商人のところで潮汲みの人足となり働いていたところを、たまたま通りかかった領主に見出され、将門の血を引く者だと知って子供がいなかったその領主の後継にもらわれたのです。

(安寿と厨子王では姉の安寿が潮汲みをさせれています。当時の重労働の代表的な作業だったのでしょうか)

それから何年かして、小太郎は信望も高くなるり、周りにたくさんの味方を引き連れて、故郷信太の庄の「行重」を攻め滅ぼして信太で再び住民に慕われて領地を拡大して行ったのです。

この信太小太郎がその後の「相馬氏」になっていったというのが、(下総)相馬氏に伝わっているようなのです。
相馬氏は千葉氏とも関係があるようですですが、現在の柏市や守谷市など、昔、平将門がいたとされる地域を支配していきます。

今では将門というとまつりが行われている岩井(坂東市)を思い浮かびますが、下総相馬氏のいた、この守谷市近辺には平将門が創建したという神社やお寺が多数あります。

さて、この小太郎の話はこの稲敷や美浦、旧相馬郡ばかりではなく、北の方の各地に残されています。

茨城県にも茨城県の旧水府村(現常陸太田市)に小太郎の墓があります。
ここでは1492年に小太郎を乗せた馬が深田にはまり、折からの増水で流されて亡くなったとされます。

この小太郎伝説の広がりは、戦国時代に広がったとされる幸若舞(こうわかまい)「信太」の広がりと関係しているようです。

戦国武将なども愛好した曲舞(くせまい)の一つで、今から思い図ることも難しいのですが、このようなものも調べると民族的にも面白いのかもしれません。

さて、今日はこの信田(信太)の庄の館があったとされる稲敷市佐倉にある「佐倉神社」を紹介します。

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県道125号線を美浦村を過ぎて姥神の信号を成田空港の方に曲がり、江戸崎の町に入る手前に道路で東西に分断された古びた神社がある。

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通りの東側には通り側に本殿があり、神社の入口や拝殿はその裏側になっている。
一体であった神社が本殿をギリギリ避ける形で道路が作られてしまったようです。

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通りの右側(西側)には小さな赤い祠と大きな木がそびえています。

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大きな古木の麓にはこのような「庚申塔」の石像が置かれていました。

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その隣の石像です。

この佐倉神社があるあたりが、この小太郎のいた屋敷があったあたりと言われているようです。

明日は少し西側(美浦村)につながったところあたりを紹介します。



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稲敷散歩(江戸崎周辺) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/29 19:43
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