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稲敷散歩(26)-信太小太郎伝説その3

 昨日は帰りが遅くなってしまいよく調べないで書いたらやはり間違っていたようです。

相馬氏に伝わる「信太小太郎」は平将門の曽孫だが、将門の死が西暦940年となっているので年代を考えるとそれくらい離れていなければおかしいと、作られたとしてもおかしくはない。

昨日も書いたが、何故かこの話を読んで。「山椒大夫」(安寿と厨子王)の話が浮かんだ。
このため、森鴎外が書いた基になったという説話「さんせう太夫」の背景が知りたくなった。

江戸時代の初めに流行した説経節の中の一つが「さんせう太夫」ということらしいのだが、話は室町時代末期だそうだ。
岩城国(現在のいわき市?)の判官(ほうがん:四等級の三番目の官職で国衙においては掾(じょう)といった)

この話を調べてみると岩城国の判官の名は「平正氏(まさうじ)」でこれまた将門の子孫だという。
森鴎外の話と基になった説教話にはだいぶ違いがあるようなのですが、正氏が換言にあい筑紫に流されたのではなく正氏は義兄により殺され「住吉城」を追われてしまいます。

お家再興を願うために都を目指して福島から直江津へ旅をしていきます。
しかし、だまされ、人買いに売り飛ばされ親子別々になってしまいます。

細かな話をしても仕方がないのだが、逃げることができた厨子王は最後には3000の兵を率いていわきに戻ってきて義兄を滅ぼし父の敵を打つのです。
そして人の売買を禁じ、佐渡で盲目となった瞽女の母に再会し、家宝として大切にしていた守仏「地蔵尊像」で目が見えるようになる。

よく見てみるとこの「さんせう太夫」と「信太小太郎」の話はとてもよく似た話です。

厨子王は正隆と名乗り、岩城に帰って、総本家の相馬家の繁栄を図ったとなっています。

いわき市(福島県)の城があったとされる金山町の金山公園に安寿と厨子王と母の親子像が造られています。

この室町時代の話が江戸時代に浄瑠璃などの話の基になり発展するうちに色々な話が加わったり変更されたりしていくのだろうと思います。

さて、昨日紹介した「普賢院」はこの信太小太郎の守仏「阿弥陀如来」を祀っているとされています。

それでは、もう一箇所伝説が伝わるという「西福寺」(美浦村)を紹介します。

seifukuji01_20120731200902.jpg

県道125号線の「トレセン入口」信号を美浦トレセン方面に入ってすぐこの寺がある。
車の通りの横に旧道のようなところが残っているが、そこから石段を登ったところに寺があるが、通りからすぐ見上げたようなところで、周りはどうにも殺風景である。

何だか歴史的に? どうなんだろうと思うくらいだ。

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しかし、どうやらこの寺(東輝山薬王院西福寺)には昔、小太郎頼望が佐倉に城を構え、この場所に堂宇を建てて薬師様を安置したと記録に残されているという。

昔あったと言われる薬師堂は今はない。
また、伝承に残された寺の名前も「東光寺」であり、「西福寺」に名前を変えたそうだ。

寺の紋は源氏の直系である笹竜胆(ささりんどう)が描かれているようだ。

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しかし、ここも美浦トレセン(競馬馬のトレーニングセンタ)に近いのだが、昔のイメージが湧いてこない。

トレセンの従業員の施設などを建てたり移動した時に発掘調査がおこなわれて、かなり古い住居跡などが見つかっている。

この信太(しだ)という名前が残されたこの地が信太郡の郡衙であった時もあるのだろうか。



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稲敷散歩(江戸崎周辺) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/31 21:04
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