筑波山と子授け地蔵
ここ2日に分けて筑波山での夕日をお届けしましたが、この撮影場所には「子授け地蔵」さんが立っています。
昨年8月にもこの紹介をしていますので同じような記事になることお許しください。(こちら)
名前のいわれなどは前に書いた時に載せていますので興味があれば見てください。

場所はつつじヶ丘下の風返し峠から東筑波スカイラインを東に1km程度行った駐車場なのだが、昔有料だったこのスカイラインが無料になって、使える駐車場としてはここしかない。
他の駐車場はすべて門を閉めて閉鎖している。
これも暴走族対策の一環なのだろうが、普通の観光客にも駐車場が使えないのは困りものだ。
この駐車場も昔はトイレ等が整備されていたようだが、今は何もない。
一番奥に赤い鳥居が立っている。

鳥居をくぐってすぐこのようなお宮とたくさんの石地蔵や色々な石などがある。
子宝に恵まれるようにここで300円を箱に入れて置いてある「願い木札」をいただいて願い事を書いて置いていきます。
また、ここにある石や石地蔵を抱くと子宝に恵まれると伝えられています。

石地蔵も恐らく願いが叶ったらまた奉納する人がいたりするようです。
このような小さなぬいぐるみなどを掛けていくのはお礼にかけたのでしょうか?
私にはわかりません。

もうすぐ日が暮れます。
この場所は暗くなると怖いです。
山の天気も麓とは違いますね。

このお宮のすぐ上の高台に「子授け地蔵」という大きな地蔵さんが建てられました。
いつ建てられたものかはわかりませんが、比較的新しいと思います。
私がこの婆ヶ峰(姥ヶ峰)をまた紹介する気になったのは、先日から紹介してきた信太小太郎伝説から連想されたためだ。
全く話は違うし、どこに共通点があるのかなどという質問をされても答えようがない。
突然うかんできただけである。
ここの地名伝説として石岡(八郷地区)に残されている話は、とても単純な話である。
「昔、この場所を通った婆さんと爺さんが追い剥ぎに殺されてしまった。そのため、この場所が婆ヶ峰、爺ヶ峰と言われるようになった。
そして、亡くなった爺婆を哀れに思った村人が石仏を作り、春と秋の彼岸に供養法要を営んだ。そしてこの石仏を抱くと子宝に恵まれるという言い伝えが残った。」
というものだ。
しかし、名前の由来と話は多分逆で、名前があって、この追い剥ぎの話が出来上がったと考える方が普通だと思う。
すると、この地蔵をこの場所に置いたのは誰なのでしょうか?
恐らく八郷地区の十三塚の人たちなのでしょう。
この十三塚という名前もいわれが残されています。
十二匹の大鼠と一匹の猫が死闘を繰り広げて死んだのを葬った塚から名付けられたという。
何故、この二つの話は融合しないで別々に伝わっているのだろう。
ふるさとに残されたお話は、時代に合わせた教訓や時代背景などを映して変わっていくに違いないのですが・・・・。
この2つの昔話はとても面白いのだけれど、どうにも発展してこなかったのかもしれない。
徳一法師が筑波山の周りに配した四面薬師の一つがこの十三塚にあったが、今は何もない。
しかし、この薬師堂は明治になって、石岡の国分寺に移され、その薬師堂として残されている。
本当はとても大切にして守っていかなければならないお話しだと思います。
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昨年8月にもこの紹介をしていますので同じような記事になることお許しください。(こちら)
名前のいわれなどは前に書いた時に載せていますので興味があれば見てください。

場所はつつじヶ丘下の風返し峠から東筑波スカイラインを東に1km程度行った駐車場なのだが、昔有料だったこのスカイラインが無料になって、使える駐車場としてはここしかない。
他の駐車場はすべて門を閉めて閉鎖している。
これも暴走族対策の一環なのだろうが、普通の観光客にも駐車場が使えないのは困りものだ。
この駐車場も昔はトイレ等が整備されていたようだが、今は何もない。
一番奥に赤い鳥居が立っている。

鳥居をくぐってすぐこのようなお宮とたくさんの石地蔵や色々な石などがある。
子宝に恵まれるようにここで300円を箱に入れて置いてある「願い木札」をいただいて願い事を書いて置いていきます。
また、ここにある石や石地蔵を抱くと子宝に恵まれると伝えられています。

石地蔵も恐らく願いが叶ったらまた奉納する人がいたりするようです。
このような小さなぬいぐるみなどを掛けていくのはお礼にかけたのでしょうか?
私にはわかりません。

もうすぐ日が暮れます。
この場所は暗くなると怖いです。
山の天気も麓とは違いますね。

このお宮のすぐ上の高台に「子授け地蔵」という大きな地蔵さんが建てられました。
いつ建てられたものかはわかりませんが、比較的新しいと思います。
私がこの婆ヶ峰(姥ヶ峰)をまた紹介する気になったのは、先日から紹介してきた信太小太郎伝説から連想されたためだ。
全く話は違うし、どこに共通点があるのかなどという質問をされても答えようがない。
突然うかんできただけである。
ここの地名伝説として石岡(八郷地区)に残されている話は、とても単純な話である。
「昔、この場所を通った婆さんと爺さんが追い剥ぎに殺されてしまった。そのため、この場所が婆ヶ峰、爺ヶ峰と言われるようになった。
そして、亡くなった爺婆を哀れに思った村人が石仏を作り、春と秋の彼岸に供養法要を営んだ。そしてこの石仏を抱くと子宝に恵まれるという言い伝えが残った。」
というものだ。
しかし、名前の由来と話は多分逆で、名前があって、この追い剥ぎの話が出来上がったと考える方が普通だと思う。
すると、この地蔵をこの場所に置いたのは誰なのでしょうか?
恐らく八郷地区の十三塚の人たちなのでしょう。
この十三塚という名前もいわれが残されています。
十二匹の大鼠と一匹の猫が死闘を繰り広げて死んだのを葬った塚から名付けられたという。
何故、この二つの話は融合しないで別々に伝わっているのだろう。
ふるさとに残されたお話は、時代に合わせた教訓や時代背景などを映して変わっていくに違いないのですが・・・・。
この2つの昔話はとても面白いのだけれど、どうにも発展してこなかったのかもしれない。
徳一法師が筑波山の周りに配した四面薬師の一つがこの十三塚にあったが、今は何もない。
しかし、この薬師堂は明治になって、石岡の国分寺に移され、その薬師堂として残されている。
本当はとても大切にして守っていかなければならないお話しだと思います。


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