おや、月見草・・・
8月11日を迎えました。
このブログもやっと2年経過し3年目に突入しました。
Romanなどというキザなハンドルネームもただの偶然の産物。
最初はそんなつもりもなく登録するときになんでもいいだろうと決めたこと。
しかし、まあこれも2年も経てば何となくそれらしくなってくるので不思議。
1年目:365日、発信件数468件、掲載写真1,150枚、アクセス総数64,600件。(この時の記事:こちら)
2年目:365日、発信件数446件、掲載写真2,130枚、アクセス総数86,900件(合計151,500件)。
これからも忘れられ、打ち捨てられている身近な歴史や風土にできるだけスポットを当てていければいいなと思います。

太宰治は河口湖から甲府に向かう途中にある御坂峠の茶屋に逗留していた友人井伏鱒二のところにやってきてしばらく逗留しました。
郵便物は自分で麓の河口局まで時々取りに行かねばならなかったのです。
そしてつぎの文章だ。
「河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、
濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、
女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、
また自分ひとりの咏嘆ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、
リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆつて、
口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、
一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、
やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。
けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、
富士には一瞥も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、
私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、
私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、
その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、
と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、
老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。
老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、
私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、
金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。
富士には、月見草がよく似合ふ。」(太宰治 富嶽百景より)
そうです。富士山などという(知らない人はいない)俗な山など見たくもないなどとのたまいながら、富士の圧倒的な姿に嫉妬をしていたのでしょう。
そして、道の傍らに咲く月見草が富士と比べても何の遜色もないその存在感を感じたのです。
でもこれは太宰流の計算された文章ですね。
計算されたところが嫌いだという人もいるでしょう。
でも言葉がぐさりと心に飛び込んでくる。
御坂峠は今は下をトンネルが通り、峠道を走ることはほとんどなくなりましたが、この道は古東海道からの分かれ道で甲斐国府中(一宮御坂IC近く)へ行く「御坂みち」でした。
このことも小説には出てきます。
そんなことを思いながらこの道を通る人もほとんどいないでしょうね。
私は、富士を眺めるのは、この近くの三つ峠山が一番と密かに思っています。

まだ暑い日がぶり返してきていますが、お盆で帰省される方も多いでしょう。
皆さんまだ暑い夏を乗り切っていきましょう。
残暑お見舞申し上げます。
「なは愛(いと)しきもの」の歌がCDになりました。(こちらで聞けます)
名もない花はありません
あなたが知らないだけなのです
名もない花の可愛さを
私が知らないだけなのです
側溝にしがみついて咲く小花
名は何とたずぬるも 応えの見えず
(作 詞 : 白井 啓治 作 曲 : 野口 喜広)
9月9日(日)ギター文化館でニューアルバムリリース コンサートがあります。(こちら)
いわき市の仮設住宅にいる福島県楢葉町の方たちも、この夏のお盆に合わせて、やっと警戒区域の指定が緩められ、昼間は自由に出入りできるようになりました。
旧盆のこの時期にお墓参りに帰れるようになりました。しかし除染はまだ終わっていません。
マスクをしてお墓掃除におとづれる人が多いでしょう。
いつになったら昔の生活に戻れるのでしょうか?
この人たちがいったい何をしたというのでしょうか?
じっと耐えるしかないのですか? 仮設住宅も暑くて狭いです。
もっともっと政治は心が折れそうな人々に寄り添って考えて欲しいものです。
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このブログもやっと2年経過し3年目に突入しました。
Romanなどというキザなハンドルネームもただの偶然の産物。
最初はそんなつもりもなく登録するときになんでもいいだろうと決めたこと。
しかし、まあこれも2年も経てば何となくそれらしくなってくるので不思議。
1年目:365日、発信件数468件、掲載写真1,150枚、アクセス総数64,600件。(この時の記事:こちら)
2年目:365日、発信件数446件、掲載写真2,130枚、アクセス総数86,900件(合計151,500件)。
これからも忘れられ、打ち捨てられている身近な歴史や風土にできるだけスポットを当てていければいいなと思います。

太宰治は河口湖から甲府に向かう途中にある御坂峠の茶屋に逗留していた友人井伏鱒二のところにやってきてしばらく逗留しました。
郵便物は自分で麓の河口局まで時々取りに行かねばならなかったのです。
そしてつぎの文章だ。
「河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、
濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、
女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、
また自分ひとりの咏嘆ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、
リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆつて、
口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、
一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、
やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。
けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、
富士には一瞥も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、
私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、
私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、
その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、
と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、
老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。
老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、
私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、
金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。
富士には、月見草がよく似合ふ。」(太宰治 富嶽百景より)
そうです。富士山などという(知らない人はいない)俗な山など見たくもないなどとのたまいながら、富士の圧倒的な姿に嫉妬をしていたのでしょう。
そして、道の傍らに咲く月見草が富士と比べても何の遜色もないその存在感を感じたのです。
でもこれは太宰流の計算された文章ですね。
計算されたところが嫌いだという人もいるでしょう。
でも言葉がぐさりと心に飛び込んでくる。
御坂峠は今は下をトンネルが通り、峠道を走ることはほとんどなくなりましたが、この道は古東海道からの分かれ道で甲斐国府中(一宮御坂IC近く)へ行く「御坂みち」でした。
このことも小説には出てきます。
そんなことを思いながらこの道を通る人もほとんどいないでしょうね。
私は、富士を眺めるのは、この近くの三つ峠山が一番と密かに思っています。

まだ暑い日がぶり返してきていますが、お盆で帰省される方も多いでしょう。
皆さんまだ暑い夏を乗り切っていきましょう。
残暑お見舞申し上げます。
「なは愛(いと)しきもの」の歌がCDになりました。(こちらで聞けます)
名もない花はありません
あなたが知らないだけなのです
名もない花の可愛さを
私が知らないだけなのです
側溝にしがみついて咲く小花
名は何とたずぬるも 応えの見えず
(作 詞 : 白井 啓治 作 曲 : 野口 喜広)
9月9日(日)ギター文化館でニューアルバムリリース コンサートがあります。(こちら)
いわき市の仮設住宅にいる福島県楢葉町の方たちも、この夏のお盆に合わせて、やっと警戒区域の指定が緩められ、昼間は自由に出入りできるようになりました。
旧盆のこの時期にお墓参りに帰れるようになりました。しかし除染はまだ終わっていません。
マスクをしてお墓掃除におとづれる人が多いでしょう。
いつになったら昔の生活に戻れるのでしょうか?
この人たちがいったい何をしたというのでしょうか?
じっと耐えるしかないのですか? 仮設住宅も暑くて狭いです。
もっともっと政治は心が折れそうな人々に寄り添って考えて欲しいものです。


そうなんですか!知らなかった。地図で確かめたら確かにトンネルが!
「御坂みち」は山梨へ渓流釣りやブドウ狩りに行くのによく通りました。
ワインディングロードが大変だな、という通過地という思いだけで富士山の眺めを思ったことも、まして井伏鱒二ゆかりの地であることも考えませんでした。
トンネルが出来たのは2006年ですか。そうするともう6年も行ってなかった;;
甲府と湘南を結ぶ最短路ですが、武田信玄が小田原の北条氏を攻めたときはこの道は通らなかったんですね。箱根の山塊もあるので大軍の行動には適さなかったのでしょう。
来るときは府中、相模原を通り、帰りは有名な三増峠の戦いを経て道志へ。つまり甲州街道ですね。
三増古戦場の周囲を見て歩いたことがありますが、こんな山の中で軍隊を動かして、どんないくさをしたものか興味と不可解を同時に感じました。…脱線してすいません。
こんにちは。釣りをやられるのですね。
私より詳しいんではないですか?
でもこのトンネルは昭和42年に完成しているみたいですよ。
私も昔行った時にはすでに出来ていたように思います。(記憶がはっきりしません)
昔、峠側の道には、天下茶屋があって(今もあるようです)のところに太宰と井伏鱒二の碑が立っていたように思いますが・・・。
また更に本当の旧道はこの茶屋のところから上に登る道があったようです。
昔も歩く道があったように記憶しているので今もあるんではないかと思います。
車の道はここに昭和6年に御坂トンネル(御坂隧道)ができたとありますから、太宰が小説を書いた時には茶屋のところにある旧トンネル(隧道)はあったようです。
旧道も景色を眺めるには良いので片側1車線の舗装道路が続いていますので、まだ一般にも使われているみたいです。
> 甲府と湘南を結ぶ最短路ですが、武田信玄が小田原の北条氏を攻めたときはこの道は通らなかったんですね。箱根の山塊もあるので大軍の行動には適さなかったのでしょう。
> 来るときは府中、相模原を通り、帰りは有名な三増峠の戦いを経て道志へ。つまり甲州街道ですね。
> 三増古戦場の周囲を見て歩いたことがありますが、こんな山の中で軍隊を動かして、どんないくさをしたものか興味と不可解を同時に感じました。…脱線してすいません。
甲斐国の国府がこの先にあったようですので、東海道の一部脇道として使われてきたのでしょう。
甲州街道はかなりあとから出来たように思うのですが、甲州裏街道(大菩薩峠の小説に出てくる)が結構使われていたのかもしれません。(小菅から相模湖かまたは五日市へ出る)
相模湖に出ると津久井湖から65号線で三増峠を通って相模や海老名へでますね。
色々と思いが広がってきます。情報ありがとうございました。
実はRomanさんのホームページ「石岡ロマン紀行」はRomanさんのブログを知る前からよく拝見していたんです。Romanさんのブログを知った後もRomanさんのホームページとは知らずに。昨年石岡の国分寺とかを訪ねたとき初めて知りました。いつもホームページ、ブログでいろんな情報をいただいています。ありがとうございます。これからも大好きな歴史に関する情報よろしくお願いします。
ありがとうございます。 troyさんが少し先輩ですね。
> 実はRomanさんのホームページ「石岡ロマン紀行」はRomanさんのブログを知る前からよく拝見していたんです。Romanさんのブログを知った後もRomanさんのホームページとは知らずに。昨年石岡の国分寺とかを訪ねたとき初めて知りました。
そうだったんですか。このロマン紀行のタイトルからハンドル決めたんです。
見ていてくれたのは嬉しいです。
> いつもホームページ、ブログでいろんな情報をいただいています。ありがとうございます。これからも大好きな歴史に関する情報よろしくお願いします。
できるだけ続けたいと思いますが、ネタ切れ感もあり、ペースをダウンすると思います。
troyさんの写真はだんだん磨きがかかってきましたね。
いつも楽しみにしています。
お互い自分の出来る範囲で、これからも頑張っていきましょう。
コメントありがとうございました。