稲敷散歩(27)-二つの楯縫神社(信太)
お盆も終わり、8月も半ばを過ぎました。
今日のニュースで茨城空港から沖縄那覇への定期便(神戸経由)が1日1便運行されるそうです。
この夏の3ヶ月間に限って運行をしてきたのを10月以降も毎日1便運行するというのです。
北海道に加えて、沖縄へも行けるようになり、茨城も便利になりますね。
またひたちなか海浜鉄道(湊線)では昔懐かしのクーラのない窓を開け放しての列車を運転したそうです。
のんびり昔を振り返って、稲刈り前の田んぼの中を走る列車に乗って那珂湊などに行ってみるのもいいですね。
今度の土日(8/25、26)も運転するそうですのでいかがですか?
さて、春から旧江戸崎町とその周辺の歴史などを見てきました。
そして信太小太郎の伝説や稲敷の名前の由来となったと思われる筑波の「飯名の社」も見ました。
また昨年には美浦村にある神社や古墳も見てきました。
前の記事から少し時間が経ってしまいましたが、稲敷散歩と題して調べていたけれどまだ書いていない記事を忘れてしまう前に残しておきたいと思います。
稲敷郡美浦村には二つの楯縫(たてぬい)神社があるのです。
その一つは旧国道125号線の美浦村木原にあり、前に「物部残した神社」として紹介しました。(こちら)
「天より降り来たった神があった。名は普都(ふつの)大神といひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った。」(口訳・常陸風土記より)
と風土記にかかれているように 身につけてい楯などを置いていったといわれる場所が2箇所あるのです。
ではもう一つの楯縫神社は、美浦トレセンに向かう途中の「信太(しだ)」とその地名に残されている場所にあります。やっとその場所に今から1ヶ月くらい前に行ってきた。
そこは前に書いた信太小太郎の屋敷あったとされる「佐倉」のすぐ近くだ。
なかなか記事にできなかったが忘れる前に書き残しておきたいと思った。

トレセンに向かう途中の通り近くの空き地に車を停めて、通りの東側の神社を目指した。
この辺り一帯が少し高く飛び出していて、この高台の下まで昔は海が来ていたであろうことが推察できる。
この神社の道だと思って曲がったところがひとつ手前であり、結局神社の周りを1周してしまった。
もう一つの木原の楯縫神社とは明らかに地形が違っている。むかしの人が建てた神社などの祭礼の場所としてはこのような崖の上のような場所は向いていると思う。

神社脇の道を行くと家や田んぼが広がり霞ヶ浦につながっている。
1500年くらい前はどんな姿だったのだろうか?
(神社は上の写真の左手側の木々の茂っている高台です)

神社は木原の楯縫神社に比べればかなり質素だ。
この神社が信太郡総社だとも言われている。

拝殿。神社は無人のようだが、管理されている人は代々おられるようだ。
どこかで信太小太郎の子孫だとも言われるという記事も見たような気がする。


こちらが拝殿裏の本殿です。

実は古代の信太郡は、白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて置かれたとされ(常陸風土記 逸文)、その郡の郡衙(ぐんが=首都)がどこに置かれたのか未だに判明していない。
この先の競走馬のトレーニングセンタ(美浦トレセン)の近くのこの地には「大作台遺跡」「信太入子ノ台遺跡(トレセン美駒寮横)H22年」などの遺跡が見つかっており、縄文時代から平安時代の住居跡や、「志太」と墨で書かれた土器なども見つかっており、大変興味深い地域なのです。
現在のところ郡衙の候補地はこの信太楯縫神社「美浦村信太地区」、阿見町の阿弥神社のある「竹来地区」(高久)、稲敷市の「下君山地区(木瓜台)」の三箇所と思われますが、私は時代によって郡衙が移ったのではないかと考えています。
最初にこの信太地区、そして東の高久の里へ、その後下君山へ移ったと考えてみると何となくわかる気がします。
根拠はあまりありません。
下君山には古代の廃寺があったことがわかっていますが、その出土した瓦などから意外に時代は新しく、常陸国分寺よりも後であり、奈良時代ではないかと考えられています。
ただ古東海道の道を考えるとこの場所が信太郡の入口になっていたことは十分に考えられるように思われます。
もう少し発掘が進めばまた新たな事実も浮かんでくるでしょう。
下君山の郡衙跡と思われる場所から、阿見町の竹来(高久)に向かって真っ直ぐな道が走っていた形跡が残っています。
ただし、具体的に発掘調査で道路跡が発見されたわけではありません。
街道も土浦の亀城公園(湿地帯に亀の甲羅状の台地があったので、この名前がついた?)を通るようになったのが何時頃からなのかまだまだわからない。
上高津貝塚などの遺跡を見れば、縄文時代には少なくてもこの上高津くらいまでは内海(現霞ヶ浦)が広がってきたはずです。
8世紀頃にはどの程度水位があったのかもよくわかりません。
おそらくまだ霞ヶ浦を船で渡っていたのでしょう。
そのため、この竹来(高久)からもし北に道が続いていたとするなら、筑波郡の郡衙(平沢官衙)に向かっていたと考えるのも悪くないですね。
(考えるのは勝手です。根拠もないので信じないでくださいね)
今日紹介している信太地区はそれよりも前の郡衙であったというのが、私の思いつきです。
← よろしければクリックお願いします。
今日のニュースで茨城空港から沖縄那覇への定期便(神戸経由)が1日1便運行されるそうです。
この夏の3ヶ月間に限って運行をしてきたのを10月以降も毎日1便運行するというのです。
北海道に加えて、沖縄へも行けるようになり、茨城も便利になりますね。
またひたちなか海浜鉄道(湊線)では昔懐かしのクーラのない窓を開け放しての列車を運転したそうです。
のんびり昔を振り返って、稲刈り前の田んぼの中を走る列車に乗って那珂湊などに行ってみるのもいいですね。
今度の土日(8/25、26)も運転するそうですのでいかがですか?
さて、春から旧江戸崎町とその周辺の歴史などを見てきました。
そして信太小太郎の伝説や稲敷の名前の由来となったと思われる筑波の「飯名の社」も見ました。
また昨年には美浦村にある神社や古墳も見てきました。
前の記事から少し時間が経ってしまいましたが、稲敷散歩と題して調べていたけれどまだ書いていない記事を忘れてしまう前に残しておきたいと思います。
稲敷郡美浦村には二つの楯縫(たてぬい)神社があるのです。
その一つは旧国道125号線の美浦村木原にあり、前に「物部残した神社」として紹介しました。(こちら)
「天より降り来たった神があった。名は普都(ふつの)大神といひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った。」(口訳・常陸風土記より)
と風土記にかかれているように 身につけてい楯などを置いていったといわれる場所が2箇所あるのです。
ではもう一つの楯縫神社は、美浦トレセンに向かう途中の「信太(しだ)」とその地名に残されている場所にあります。やっとその場所に今から1ヶ月くらい前に行ってきた。
そこは前に書いた信太小太郎の屋敷あったとされる「佐倉」のすぐ近くだ。
なかなか記事にできなかったが忘れる前に書き残しておきたいと思った。

トレセンに向かう途中の通り近くの空き地に車を停めて、通りの東側の神社を目指した。
この辺り一帯が少し高く飛び出していて、この高台の下まで昔は海が来ていたであろうことが推察できる。
この神社の道だと思って曲がったところがひとつ手前であり、結局神社の周りを1周してしまった。
もう一つの木原の楯縫神社とは明らかに地形が違っている。むかしの人が建てた神社などの祭礼の場所としてはこのような崖の上のような場所は向いていると思う。

神社脇の道を行くと家や田んぼが広がり霞ヶ浦につながっている。
1500年くらい前はどんな姿だったのだろうか?
(神社は上の写真の左手側の木々の茂っている高台です)

神社は木原の楯縫神社に比べればかなり質素だ。
この神社が信太郡総社だとも言われている。

拝殿。神社は無人のようだが、管理されている人は代々おられるようだ。
どこかで信太小太郎の子孫だとも言われるという記事も見たような気がする。


こちらが拝殿裏の本殿です。

実は古代の信太郡は、白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて置かれたとされ(常陸風土記 逸文)、その郡の郡衙(ぐんが=首都)がどこに置かれたのか未だに判明していない。
この先の競走馬のトレーニングセンタ(美浦トレセン)の近くのこの地には「大作台遺跡」「信太入子ノ台遺跡(トレセン美駒寮横)H22年」などの遺跡が見つかっており、縄文時代から平安時代の住居跡や、「志太」と墨で書かれた土器なども見つかっており、大変興味深い地域なのです。
現在のところ郡衙の候補地はこの信太楯縫神社「美浦村信太地区」、阿見町の阿弥神社のある「竹来地区」(高久)、稲敷市の「下君山地区(木瓜台)」の三箇所と思われますが、私は時代によって郡衙が移ったのではないかと考えています。
最初にこの信太地区、そして東の高久の里へ、その後下君山へ移ったと考えてみると何となくわかる気がします。
根拠はあまりありません。
下君山には古代の廃寺があったことがわかっていますが、その出土した瓦などから意外に時代は新しく、常陸国分寺よりも後であり、奈良時代ではないかと考えられています。
ただ古東海道の道を考えるとこの場所が信太郡の入口になっていたことは十分に考えられるように思われます。
もう少し発掘が進めばまた新たな事実も浮かんでくるでしょう。
下君山の郡衙跡と思われる場所から、阿見町の竹来(高久)に向かって真っ直ぐな道が走っていた形跡が残っています。
ただし、具体的に発掘調査で道路跡が発見されたわけではありません。
街道も土浦の亀城公園(湿地帯に亀の甲羅状の台地があったので、この名前がついた?)を通るようになったのが何時頃からなのかまだまだわからない。
上高津貝塚などの遺跡を見れば、縄文時代には少なくてもこの上高津くらいまでは内海(現霞ヶ浦)が広がってきたはずです。
8世紀頃にはどの程度水位があったのかもよくわかりません。
おそらくまだ霞ヶ浦を船で渡っていたのでしょう。
そのため、この竹来(高久)からもし北に道が続いていたとするなら、筑波郡の郡衙(平沢官衙)に向かっていたと考えるのも悪くないですね。
(考えるのは勝手です。根拠もないので信じないでくださいね)
今日紹介している信太地区はそれよりも前の郡衙であったというのが、私の思いつきです。


(吉田)
こちらにもコメントいただけて嬉しいです。
みんなで押しかけましょう。
瓶ビールに瓶コーラなどに期待!