ダイダラボッチの里(4)-盛賢寺
先に3回にわたり石岡市の一番南東部にある「井関地区」を江戸時代から変わった大人形=ダイダラボッチを街角に飾るダイタラボッチの里として紹介してきました。
昔はこの地区の6箇所の地域で飾られていたものが、2箇所がやめになって残っているのは4箇所。
このブログもこのダイダラボッチを紹介するだけでは終われない。
私が石岡に来て1年ほど過ぎた頃、この地区が石岡市内とは違った文化を持っていることに少し関心を持ったことがある。
その時はよく理由がわからなかったが、この土地が江戸時代は水戸藩の飛び地であったことを知ってなんとなくわかってきたように思います。
少しでも紐解ければと思いその他のところも見ていきたいと思います。
まずは、とても立派な寺である「盛賢寺」を紹介しましょう。
ここを最初に訪れた時の説明でも、この寺は水戸光圀の命で那珂郡額田より引寺して建てられたとなっていたのです。

代田のダイダラボッチを見てその道(県道118号線)を進むと、かすみがうら市の方に道は曲がっていきます。すると右手に立派な寺が見えてきます。
この寺がこのあたりではかなり格式を持った「盛賢寺」(霊通山無量寿院)です。
このお寺は真言宗豊山派の寺院です。
引寺=曳き寺というのですから、寺を分解して移したのでしょうか?
どうもよくわかりません。

この山門(仁王門)には立派な木造仁王像があります。この門をくぐったところにある阿弥陀堂と並んで市の文化財に指定されています。

これが市指定文化財である「阿弥陀堂」です。
とても荘厳な屋根が目を見張ります。
もとは茅葺き屋根の阿弥陀堂でしたが、1983年(昭和58年)に銅板葺きに修理されたものだといいます。

この寺を訪れた時に、このお堂が寺その物だと思っていました。
ですからこの立派なお堂を額田(那珂市)より曳いてきたのでしょうか?
どうもそれは違うようです。

調べてみると、この阿弥陀堂はこの地に700年程前に建てられたといいます。
もと醍醐三宝院の末院とされた阿弥陀堂だといいます。
ものすごく立派なものです。
近くにおられてみておられない方は一度見ておかれることをお勧めします。
そして、この地が水戸藩ということで、光圀がやってきた時にこの阿弥陀堂がとても立派で驚いたことのようです。
そして、堂だけで、寺がないので額田より寺を持ってきてこの地の信仰の中心としたのだと思います。

寺の本堂はこの仁王門の横から山に沿って少し登ったところにあります。
この写真はその登り道の途中から門を見たところです。

こちらが寺の本堂です。一般の観光客はこちらには来ないのかもしれません。
本堂と信徒会館などがあります。
盛賢寺となってからの天明4年(1784)に火災にあって焼けてしまったそうですが、その翌年に再建したものだといいますので、阿弥陀堂もその時の堂で、昭和になって屋根は銅板に作り替えたということでしょう。
この寺の説明看板に書かれていることで、一つ面白いことが書かれていましたので紹介しておきましょう。
阿弥陀堂の縁日は正月と七月にあるそうだが、その正月15日(旧暦)の縁日には、その年に嫁をもらった家では、この阿弥陀堂に参詣し、お互いに「嫁自慢」をしたのだそうです。
いまはこのような風習は残っていないのでしょうが、そのような気風は伝わっているのかもしれません。
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昔はこの地区の6箇所の地域で飾られていたものが、2箇所がやめになって残っているのは4箇所。
このブログもこのダイダラボッチを紹介するだけでは終われない。
私が石岡に来て1年ほど過ぎた頃、この地区が石岡市内とは違った文化を持っていることに少し関心を持ったことがある。
その時はよく理由がわからなかったが、この土地が江戸時代は水戸藩の飛び地であったことを知ってなんとなくわかってきたように思います。
少しでも紐解ければと思いその他のところも見ていきたいと思います。
まずは、とても立派な寺である「盛賢寺」を紹介しましょう。
ここを最初に訪れた時の説明でも、この寺は水戸光圀の命で那珂郡額田より引寺して建てられたとなっていたのです。

代田のダイダラボッチを見てその道(県道118号線)を進むと、かすみがうら市の方に道は曲がっていきます。すると右手に立派な寺が見えてきます。
この寺がこのあたりではかなり格式を持った「盛賢寺」(霊通山無量寿院)です。
このお寺は真言宗豊山派の寺院です。
引寺=曳き寺というのですから、寺を分解して移したのでしょうか?
どうもよくわかりません。


この山門(仁王門)には立派な木造仁王像があります。この門をくぐったところにある阿弥陀堂と並んで市の文化財に指定されています。

これが市指定文化財である「阿弥陀堂」です。
とても荘厳な屋根が目を見張ります。
もとは茅葺き屋根の阿弥陀堂でしたが、1983年(昭和58年)に銅板葺きに修理されたものだといいます。

この寺を訪れた時に、このお堂が寺その物だと思っていました。
ですからこの立派なお堂を額田(那珂市)より曳いてきたのでしょうか?
どうもそれは違うようです。

調べてみると、この阿弥陀堂はこの地に700年程前に建てられたといいます。
もと醍醐三宝院の末院とされた阿弥陀堂だといいます。
ものすごく立派なものです。
近くにおられてみておられない方は一度見ておかれることをお勧めします。
そして、この地が水戸藩ということで、光圀がやってきた時にこの阿弥陀堂がとても立派で驚いたことのようです。
そして、堂だけで、寺がないので額田より寺を持ってきてこの地の信仰の中心としたのだと思います。

寺の本堂はこの仁王門の横から山に沿って少し登ったところにあります。
この写真はその登り道の途中から門を見たところです。

こちらが寺の本堂です。一般の観光客はこちらには来ないのかもしれません。
本堂と信徒会館などがあります。
盛賢寺となってからの天明4年(1784)に火災にあって焼けてしまったそうですが、その翌年に再建したものだといいますので、阿弥陀堂もその時の堂で、昭和になって屋根は銅板に作り替えたということでしょう。
この寺の説明看板に書かれていることで、一つ面白いことが書かれていましたので紹介しておきましょう。
阿弥陀堂の縁日は正月と七月にあるそうだが、その正月15日(旧暦)の縁日には、その年に嫁をもらった家では、この阿弥陀堂に参詣し、お互いに「嫁自慢」をしたのだそうです。
いまはこのような風習は残っていないのでしょうが、そのような気風は伝わっているのかもしれません。


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