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ダイダラボッチの里(6)-御留川

 ブログ記事を毎日書くのはやはり少し無理になって来たように思う。
夜が少し涼しくなってくれればゆっくり眠れて疲れも取れるのだが、夏場は疲れがたまってしまう。

時々は短い記事でも良いでしょう。

昨日書いた八木地区は霞ヶ浦に面しており、霞ヶ浦を一部埋め立てて干拓を行なった。
これは前に記事を書いた。(こちら

yagi02.jpg

大正から昭和にかけて高浜の醤油業「羽成卯兵衛」さんが政府の補助金と私財を投入して干拓事業を行ったが、この地は底なし沼のような土壌で杭は流され大変苦労したようだ。

 今回見ている井関地区は前から書いているように「水戸藩」の領地であった。
石岡などは松平2万石の常陸府中藩であったが、殿様も家臣もほとんど江戸詰めでこちらに来ることはほとんどなかったようです。

そのため商人や町人、農民などが中心になっており、華やかな江戸文化がほとんど伝わっていないように思います。
江戸時代の文化などの特筆すべき事柄がほとんど無いに等しいのです。

一方水戸藩は前に紹介した小川から玉里そしてこの井関の地を押さえていました。
それには理由があったようです。

水戸から江戸に物資を運ぶには那珂川から涸沼に入り、途中陸路を使って小川よりまた園部川の船着場から船に乗せて霞ヶ浦-銚子-利根川をさかのぼって埼玉県関宿で江戸川に入り、江戸へ運んでいたのです。

このため、小川が必要だったのでしょう。
では玉里とここ井関はというと「御留川(おとめがわ)」なる制度のためだと思われます。

霞ヶ浦は豊かな漁場でした。どこのものと区別ができないようでしたが、それでも自主的に乱獲を防ぎ漁民たちの自治組織などが出来上がっていました。

しかし、この高浜入りと呼ばれる入江は両岸との幅が狭くなっており、両側の領地をもつことで川とみなしてこの領域の漁業権を独占したのです。

takasaki_20120828193655.jpg

 八木干拓の手前石川地区から対岸の高崎地区を望む。
むかしこのあたりから下流の玉里地区までが御留川だった。

これにより、この領域で採れた魚はすべて水戸藩に運ばれ、水戸藩およびこの両岸の漁民に利益をもたらしたのです。

「こんなのずるいよね」と思いますが、今も昔もそんなものだったのでしょう。
しかし、統計によれば江戸時代に行われた地検により、この地の石高が150%程に上がってしまったようですので、豊かではあったでしょうが楽ではなかったのかもしれません。

そして大飢饉が起こったときにダイダラボッチ人形を作って街角においたのです。
少しこの地の人たちの気持ちもわかってくるような気もします。

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ダイダラボッチの里 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/28 19:40
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