ダイダラボッチの里(7)-浜卯干拓
昨日のニュースで「ニホンカワウソ」が絶滅種になってしまったといっていた。
ユーラシアカワウソなどはまだ結構見られるらしいのだが残念です。
1年ほど前に石岡の恋瀬川にカワウソらしきものを見かけたことがある。
その時もニホンカワウソだったらこれは大変だと話し合ったことがある。
恋瀬川や霞ヶ浦周辺にはまだまだたくさんの動物や鳥がいるが調査や保護などはどうなっているのだろうか?
さて、ダイダラボッチの里「井関」地区をみてまわり、最後に訪れた八木・石川地区は干拓事業が大正から行われてきた。
この事業が大変だったと「石岡の歴史」などの本にのっており、八木(関川)干拓のことを「浜卯干拓」というのだそうだ。
これはこの事業をした高浜の醤油業「羽成卯兵衛」の卯をとっているはずだが、浜は?
この事業は大正時代に政府の助成事業に私財もつぎ込んだ「羽成卯兵衛」さんと真壁の「猪瀬蔵太郎」さんの2人だ。
調べてみると確かにその頃は食糧難の時があったようだ。しかし今は??
この干拓地をもう一度見ておこうと行ってみた。
しかし、現在霞ヶ浦湖岸よりの堤防を工事中で車で湖岸を走ることができなかった。
そのため旧道をぐるりと回って一番奥まで行った。
そこに下記の石碑があった。
(写真はサムネルです。クリックで大きくなります)

「甦った浜卯干拓」と書かれています。 内容は下の拡大で読めると思います。

この護岸堤防工事をかなり前からやっています。
調べてみると霞ヶ浦の周りにはすべて基準高さが+3.15mとなったと書かれていたものがありました。
この基準の高さは江戸川河口の高さに対する高さを示したものだそうです。
この八木(関川)地区は対岸との距離が狭く、湖岸での水深も1m以上あるようです。
このため、風が強いと波が荒く、土を盛っただけの堤防ではないそうです。
鉄板を縦に埋め込んでそこにあとから土を盛っているようです。
霞ヶ浦の浄化についてはいろいろな意見が有り、遠く那珂川とトンネル水路をつないで水を流すことや、銚子川の水門を農閑期には開けたら良いなどの意見が交錯しています。
たしかにこの干拓地もコメが黄金色に実っていたが、果たして昔考えたほどの効果があったのか?
一部はレンコン栽培に、近く(石川地区)では生花などのビニール栽培なども行われているようだ。
そろそろ考えていかねばならないだろう。
霞ヶ浦の対岸の山の上の端には「愛宕神社」がある。
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ユーラシアカワウソなどはまだ結構見られるらしいのだが残念です。
1年ほど前に石岡の恋瀬川にカワウソらしきものを見かけたことがある。
その時もニホンカワウソだったらこれは大変だと話し合ったことがある。
恋瀬川や霞ヶ浦周辺にはまだまだたくさんの動物や鳥がいるが調査や保護などはどうなっているのだろうか?
さて、ダイダラボッチの里「井関」地区をみてまわり、最後に訪れた八木・石川地区は干拓事業が大正から行われてきた。
この事業が大変だったと「石岡の歴史」などの本にのっており、八木(関川)干拓のことを「浜卯干拓」というのだそうだ。
これはこの事業をした高浜の醤油業「羽成卯兵衛」の卯をとっているはずだが、浜は?
この事業は大正時代に政府の助成事業に私財もつぎ込んだ「羽成卯兵衛」さんと真壁の「猪瀬蔵太郎」さんの2人だ。
調べてみると確かにその頃は食糧難の時があったようだ。しかし今は??
この干拓地をもう一度見ておこうと行ってみた。
しかし、現在霞ヶ浦湖岸よりの堤防を工事中で車で湖岸を走ることができなかった。
そのため旧道をぐるりと回って一番奥まで行った。
そこに下記の石碑があった。
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「甦った浜卯干拓」と書かれています。 内容は下の拡大で読めると思います。

この護岸堤防工事をかなり前からやっています。
調べてみると霞ヶ浦の周りにはすべて基準高さが+3.15mとなったと書かれていたものがありました。
この基準の高さは江戸川河口の高さに対する高さを示したものだそうです。
この八木(関川)地区は対岸との距離が狭く、湖岸での水深も1m以上あるようです。
このため、風が強いと波が荒く、土を盛っただけの堤防ではないそうです。
鉄板を縦に埋め込んでそこにあとから土を盛っているようです。
霞ヶ浦の浄化についてはいろいろな意見が有り、遠く那珂川とトンネル水路をつないで水を流すことや、銚子川の水門を農閑期には開けたら良いなどの意見が交錯しています。
たしかにこの干拓地もコメが黄金色に実っていたが、果たして昔考えたほどの効果があったのか?
一部はレンコン栽培に、近く(石川地区)では生花などのビニール栽培なども行われているようだ。
そろそろ考えていかねばならないだろう。
霞ヶ浦の対岸の山の上の端には「愛宕神社」がある。


米余りという言葉はいつからだったでしょう、永い歴史の間ずっと米は足りなかったのを書物で知るのみです。それで干拓事業という難工事に昔から情熱が傾けられたのを思います。
私が住んでいる横浜も干拓で出来た土地だらけで、横浜開港以前の江戸時代にすでに現在の伊勢佐木町にあたる吉田新田が拓かれたのは有名です。また中華街の場所も開港以前に横浜新田という名称の干拓地でした。いずれも当初目的の水田ではなくなってます。
ちなみに中華街の街路が周囲の街路と全く整合しない向きであるのが地図で目を引きますが、よく言われるのは中国の風水によるという話です。しかしなんのことはない、もともと横浜新田の畦道の方向が残っただけだったそうです。
土木事業が人力に多く頼っていた時代には、囲われた浅い水域を埋めるのが労力が少なく出来たわけで、その観点からみると八木の干拓は霞ヶ浦の中へ踏み込んでいった‘無謀’にも見える事業ですね。
最近の人はコメを食べなくなったのに、余った土地に補助金まで出して遊ばせておく。
昔からの構造は変わっても族という日本の仕組みは変わらない。
市の議員なども6-7割くらいが農業関係者のようです。
> 私が住んでいる横浜も干拓で出来た土地だらけで、横浜開港以前の江戸時代にすでに現在の伊勢佐木町にあたる吉田新田が拓かれたのは有名です。
そうなんですか。
私も子供の時に住んでいましたが海は埋め立てられて遠くに行ってしまいました。
そこに工場や石油タンクなどが並んで、高速道路が走っています。
まったく干拓といったイメージはありませんね。
> ちなみに中華街の街路が周囲の街路と全く整合しない向きであるのが地図で目を引きますが、よく言われるのは中国の風水によるという話です。しかしなんのことはない、もともと横浜新田の畦道の方向が残っただけだったそうです。
面白い話です。目からウロコ。
この地域の干拓に比べ、利根川下流の穀倉地帯は規模が大きいですね。
こんなところを干拓しても今では効果がほとんどないように思います。
もちろん一部の人にはとても大事なことかもしれませんが。
かなり無理があります。
なんかそのまま高浜入り部分を埋め立てちゃおうなんて言い出しそうです。
八郎潟など考えるとそんなことも考えたのかもしれませんね。