きんちゃく石(1)-露盤
石岡市茨城という地名がある。茨城県名発祥の地という看板がある場所だ。
県名については前に考え方を述べているのでそちらを参考にして欲しい。
今日はこの茨城(バラキ)にある「万福寺」という寺の横にある四角い石のお話である。
バラキ台団地の入口にある万福寺の横の道を少し入った畑の中に置かれている石だ。
前に井関地区(ダイダラボッチの里)を訪ねた帰りに見てみたくなって寄り道をした。
ちょうど畑の草取りをしておられたこの土地の持ち主の方(奥様)に写真を撮らせていただく許可をいただいき、少し話を伺った。

畑のすみに「きんちゃく石」という看板があるが、この看板はこの土地の方が、訪ねてこられる人がわからないというので自分たちで作って立てられたそうだ。
本当に、看板がなければ探す人は困るだろう。
私も、万福寺の境内をくまなく探して、お寺の中ではないことを思い出して、横の畑にやってきたが、看板を見つけてやっとわかったようなものだった。

さて、この石は一体何だと思いますか?
これは、この近くにあったとされる「茨城廃寺」の五重塔の露盤ではないかと言われるものです。
茨城廃寺は国分寺よりも前に建てられた寺といわれ、茨城郡の郡寺と考えられています。
露盤は最近注目の東京スカイツリーにも採用された古代建築の塔の芯柱の上部に乗せられた重しです。
これがあるので、地震にも五重塔は今まで倒壊しなかったと言われています。
とても興味深いので、詳細は次回にまた少し書きますが、この石について「石岡の歴史」(石岡市史編さん委員会)には次のように書かれています。
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<竜神山と茨城童子>(石岡の伝説)
石岡の市街の西にある竜神山には、大昔から竜神の夫婦が住んでいると言われている。この竜神のおかげで、山のふもとの御手洗井戸は、どんな旱天にも涸れることはなかった。(途中略)・・・・・
この竜神山には、竜神のほかに「茨城童子」と呼ばれる、人の何倍もある大きな鬼が住んでいたと言う。童子は、丹波の大江山の妖怪酒呑童子の兄弟分と言われ、さらった人間を入れる大きな巾着袋をさげ、石の根締めで紐をくくり、夜ごと里人をさらっては食べたという。このため、人々は童子を大いに恐れ、子供などは「茨城童子」と聞いただけで、泣きやむほどであった。
ところが、ある時、酒呑童子を退治した源頼光のような強者が童子を退治に来ると言う噂を聞き、童子は恐ろしさのあまり、一目散で竜神山から逃げ出し、西の三角山をひとまたぎに飛び越えて行ったと言う。それから、三角山は「鬼越山」と呼ばれるようになった。
また、その時、童子は腰に下げていた巾着袋の根締め石も、邪魔だと言って投げ出していった。それが、はるか茨城の万福寺の西に落ち、畑の中にめり込んでしまった。今、茨城に残る巾着石とは、この時、落ちてきた根締め石だといわれている。
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さて、このような話は各地にあって、私の新潟(長岡)にいた祖母なども私が小さかった時に、酒呑童子の話などを良くしてくれたことを覚えています。
「泣く子は、酒呑童子にさらわれてしまう・・・」などと、昔は泣く子を黙らせる常套句だったのかもしれません。
(少し話は飛びますが、越後の栃尾(長岡市)には茨木童子が生まれたとする伝説があります)
でも、この石が茨城廃寺の石製露盤とするならば、歴史的な価値のある大切な品です。
このような畑に置いておくことは文化財を大切にしていないと言わざるを得ません。
「茨木廃寺跡Ⅰ」(石岡市教育委員会)によると、花崗岩製、平面正方形で一辺110cm、厚さ35cmで、中央に径45cmの円形貫通孔を有する。と書かれています。
少し長くなりましたので、続きはまた明日書きます。
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県名については前に考え方を述べているのでそちらを参考にして欲しい。
今日はこの茨城(バラキ)にある「万福寺」という寺の横にある四角い石のお話である。
バラキ台団地の入口にある万福寺の横の道を少し入った畑の中に置かれている石だ。
前に井関地区(ダイダラボッチの里)を訪ねた帰りに見てみたくなって寄り道をした。
ちょうど畑の草取りをしておられたこの土地の持ち主の方(奥様)に写真を撮らせていただく許可をいただいき、少し話を伺った。

畑のすみに「きんちゃく石」という看板があるが、この看板はこの土地の方が、訪ねてこられる人がわからないというので自分たちで作って立てられたそうだ。
本当に、看板がなければ探す人は困るだろう。
私も、万福寺の境内をくまなく探して、お寺の中ではないことを思い出して、横の畑にやってきたが、看板を見つけてやっとわかったようなものだった。

さて、この石は一体何だと思いますか?
これは、この近くにあったとされる「茨城廃寺」の五重塔の露盤ではないかと言われるものです。
茨城廃寺は国分寺よりも前に建てられた寺といわれ、茨城郡の郡寺と考えられています。
露盤は最近注目の東京スカイツリーにも採用された古代建築の塔の芯柱の上部に乗せられた重しです。
これがあるので、地震にも五重塔は今まで倒壊しなかったと言われています。
とても興味深いので、詳細は次回にまた少し書きますが、この石について「石岡の歴史」(石岡市史編さん委員会)には次のように書かれています。
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<竜神山と茨城童子>(石岡の伝説)
石岡の市街の西にある竜神山には、大昔から竜神の夫婦が住んでいると言われている。この竜神のおかげで、山のふもとの御手洗井戸は、どんな旱天にも涸れることはなかった。(途中略)・・・・・
この竜神山には、竜神のほかに「茨城童子」と呼ばれる、人の何倍もある大きな鬼が住んでいたと言う。童子は、丹波の大江山の妖怪酒呑童子の兄弟分と言われ、さらった人間を入れる大きな巾着袋をさげ、石の根締めで紐をくくり、夜ごと里人をさらっては食べたという。このため、人々は童子を大いに恐れ、子供などは「茨城童子」と聞いただけで、泣きやむほどであった。
ところが、ある時、酒呑童子を退治した源頼光のような強者が童子を退治に来ると言う噂を聞き、童子は恐ろしさのあまり、一目散で竜神山から逃げ出し、西の三角山をひとまたぎに飛び越えて行ったと言う。それから、三角山は「鬼越山」と呼ばれるようになった。
また、その時、童子は腰に下げていた巾着袋の根締め石も、邪魔だと言って投げ出していった。それが、はるか茨城の万福寺の西に落ち、畑の中にめり込んでしまった。今、茨城に残る巾着石とは、この時、落ちてきた根締め石だといわれている。
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さて、このような話は各地にあって、私の新潟(長岡)にいた祖母なども私が小さかった時に、酒呑童子の話などを良くしてくれたことを覚えています。
「泣く子は、酒呑童子にさらわれてしまう・・・」などと、昔は泣く子を黙らせる常套句だったのかもしれません。
(少し話は飛びますが、越後の栃尾(長岡市)には茨木童子が生まれたとする伝説があります)
でも、この石が茨城廃寺の石製露盤とするならば、歴史的な価値のある大切な品です。
このような畑に置いておくことは文化財を大切にしていないと言わざるを得ません。
「茨木廃寺跡Ⅰ」(石岡市教育委員会)によると、花崗岩製、平面正方形で一辺110cm、厚さ35cmで、中央に径45cmの円形貫通孔を有する。と書かれています。
少し長くなりましたので、続きはまた明日書きます。


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