きんちゃく石(3)-露盤
先程まで雷鳴が轟いておりましたが、今は遠のいていったようです。(8時頃書き始めています)
さて昨日書きかけていた五重塔と露盤の話を少ししてみたいと思います。

これは、ロータリークラブの看板にあった図ですが、法隆寺の五重塔を模したものだと思います。
法隆寺は聖徳太子の命令によって建てられたものだと解釈していますが、創建は607年だとされています。
しかし、日本書紀では670年に火災にあい、ほとんど皆燃えてしまったとも言われているようです。
その後、直ぐに立て直されたとすると1300年以上が経つ、日本最古の木造建築とも言われます。
しかし、この五重塔が木造なのに何で1300年以上も地震にも耐え、木が反ったり腐ったりしないで今も美しい姿を見せてくれるのでしょうか。
これはいろいろなサイトに説明もされていますが、最も大きな要因はこの芯柱が樹齢1000年以上のヒノキで、この芯柱に乗っかっているのは一番上の相輪だけで、周りの五重塔の骨組みや屋根、瓦などのは芯柱には全く荷重がかかっていないようです。
一番下(5段目)の屋根の瓦の重さは、その上の1~4段目の屋根の重量で「やじろべえ」のようにバランスをとり、4段目は1~3段目で、また3段目は・・・・ とくると、一番上(1段目)はその上に屋根がありませんので、この露盤(石)で重さをバランスさせています。
地震にもそれぞれが別々に動くので、どこかに力が集中しないようになっています。
こんな昔に、すごい技術ですね。またヒノキが一番変形もなく、長い年月でも耐えることを知っていたのですね。
露盤は今回のスカイツリーにも応用されたというので、驚きです。
さて、この法隆寺の建設には百済の人の技術が伝わっていると言われています。
ではここにあった茨城廃寺(茨木寺)はいつごろ建てられたのでしょうか?
昨日紹介したロータリークラブの説明では8世紀前期頃となっています。
しかし、出土した瓦の最も古いものは7世紀後半のものだと言われています。
そうすると、この法隆寺が再建された年(670~700年頃)とほぼ一致します。
きんちゃく石があった畑のとなりの「万福寺」は、ここ石岡にいた税所(さいしょ)氏歴代の墓と思われる五輪塔が数基置かれています。
税所という名前は、ここに古代の茨城郡があった時に税を取り締まっていた役人の役職から出来た名前だと思われます。
この税所氏の古文書残されており、元の名前は百済氏といったようです。
この茨城廃寺の建設にもきっと百済の技術者がやってきていたのでしょうか?
飛鳥時代にはこの百済王家と大和朝廷は大変密接な交流がありました。
朝鮮半島で滅びた時(660年)に大勢の百済人が日本に逃げてきています。
そして「白村江の戦い(663年)」「高句麗滅亡(668年)」と続きます。
常陸介の前進 初代常陸守は「百済王遠宝」です。西暦700年です。
こちらでも有名な「藤原宇合(うまかい)」は4代目で719年です。
これは藤原不比等の子供(三男)です。
百済王とは「くだらのこにきし」と読みます。
百済国が出身ですが、日本の氏族の一つです。
ところで奈良の国宝百済観音は美しいですね。
日本の木が使われており、日本で彫られた仏像であることは間違いがなさそうですが誰が作ったものかわかっていません。
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さて昨日書きかけていた五重塔と露盤の話を少ししてみたいと思います。

これは、ロータリークラブの看板にあった図ですが、法隆寺の五重塔を模したものだと思います。
法隆寺は聖徳太子の命令によって建てられたものだと解釈していますが、創建は607年だとされています。
しかし、日本書紀では670年に火災にあい、ほとんど皆燃えてしまったとも言われているようです。
その後、直ぐに立て直されたとすると1300年以上が経つ、日本最古の木造建築とも言われます。
しかし、この五重塔が木造なのに何で1300年以上も地震にも耐え、木が反ったり腐ったりしないで今も美しい姿を見せてくれるのでしょうか。
これはいろいろなサイトに説明もされていますが、最も大きな要因はこの芯柱が樹齢1000年以上のヒノキで、この芯柱に乗っかっているのは一番上の相輪だけで、周りの五重塔の骨組みや屋根、瓦などのは芯柱には全く荷重がかかっていないようです。
一番下(5段目)の屋根の瓦の重さは、その上の1~4段目の屋根の重量で「やじろべえ」のようにバランスをとり、4段目は1~3段目で、また3段目は・・・・ とくると、一番上(1段目)はその上に屋根がありませんので、この露盤(石)で重さをバランスさせています。
地震にもそれぞれが別々に動くので、どこかに力が集中しないようになっています。
こんな昔に、すごい技術ですね。またヒノキが一番変形もなく、長い年月でも耐えることを知っていたのですね。
露盤は今回のスカイツリーにも応用されたというので、驚きです。
さて、この法隆寺の建設には百済の人の技術が伝わっていると言われています。
ではここにあった茨城廃寺(茨木寺)はいつごろ建てられたのでしょうか?
昨日紹介したロータリークラブの説明では8世紀前期頃となっています。
しかし、出土した瓦の最も古いものは7世紀後半のものだと言われています。
そうすると、この法隆寺が再建された年(670~700年頃)とほぼ一致します。
きんちゃく石があった畑のとなりの「万福寺」は、ここ石岡にいた税所(さいしょ)氏歴代の墓と思われる五輪塔が数基置かれています。
税所という名前は、ここに古代の茨城郡があった時に税を取り締まっていた役人の役職から出来た名前だと思われます。
この税所氏の古文書残されており、元の名前は百済氏といったようです。
この茨城廃寺の建設にもきっと百済の技術者がやってきていたのでしょうか?
飛鳥時代にはこの百済王家と大和朝廷は大変密接な交流がありました。
朝鮮半島で滅びた時(660年)に大勢の百済人が日本に逃げてきています。
そして「白村江の戦い(663年)」「高句麗滅亡(668年)」と続きます。
常陸介の前進 初代常陸守は「百済王遠宝」です。西暦700年です。
こちらでも有名な「藤原宇合(うまかい)」は4代目で719年です。
これは藤原不比等の子供(三男)です。
百済王とは「くだらのこにきし」と読みます。
百済国が出身ですが、日本の氏族の一つです。
ところで奈良の国宝百済観音は美しいですね。
日本の木が使われており、日本で彫られた仏像であることは間違いがなさそうですが誰が作ったものかわかっていません。


朝鮮のことは知りたい気がしますが、百済高句麗のころのは資料が限られるためか何を見ても同じようなところまでです。
翻って近代については‘歴史認識’でぎくしゃくして文化の理解まで冷めてしまうありさま。古代まで含めて見れば‘認識’も変わるかも知れませんが、如何せん新資料は出ないのでしょうね。
朝早くに記事を少し訂正したところにコメントいただきました。
朝鮮との関係はよくわかりませんし、微妙な関係もありますので少し神経を使います。
> 石一個から石岡に五重塔があったことから、百済の関係まで及ぶのは驚くべきことですね。
石岡の歴史はこれだから面白いのでしょうね。
土浦など歴史が浅いところではたどれないですから。
> 朝鮮のことは知りたい気がしますが、百済高句麗のころのは資料が限られるためか何を見ても同じようなところまでです。
資料はどこかにあっても、もしそこに天皇家に・・・・・・なんてことがあれば出てきませんよ。
なにしろ2600年前なんて国会でも平気に論議されるのですから。
でも私も日本人ですから愛国心もありますよ。
今日もありがとうございました。
古の人々の素晴らしい知識と技術に驚きました。
静岡からコメントありがとうございます。
> 露盤のお話しはとても興味深くて、続きが楽しみでした。有難うございます。
> 古の人々の素晴らしい知識と技術に驚きました。
ちょっとしたことですが、気になって調べていくと面白いことも多いし
昔の人の技にも感心しますね。
拙いブログですがこれからもよろしくお願いします。
そちらの「オレオレ電話」面白かったです。
時々は読ませてもらっています。