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つくば市北条(3)-五輪塔(2)

 昨日は北条の商店会の東端にある八坂神社に置かれた大きな五輪塔を紹介しました。

現地のイラストマップには反対側の西側に五輪塔の絵が描かれており、「多気太郎の墓」となっていました。

これを見た時にすぐに気がつかなかったのですが、多気太郎を調べると多気義幹(たけよしもと)のことだとなっています。

うかつにもすぐに気がつかなかったのですが、この多気義幹は石岡の歴史に名を刻んでいる重要人物です。

この北条の裏手の小高い山が多気城山または城山(じょうざん)といって幻の多気城があったところだそうです。

あまりに古いので遺構もはっきりしないようですが、この多気城は多気(平)維幹(これとも)が西暦900年頃に筑波の水守からこの地に移って建てた城とされています。

多気維幹(これとも)はその後常陸大掾(だいじょう)職にに任じられて、石岡の大掾氏の世襲が始まったのだから、石岡から見てもこの地はとても縁の深い土地とも言える。

しかしどういうわけだか、石岡の歴史ではほとんど論じられない。この多気氏が常陸大掾氏と言われたのは6代目の多気(大掾)義幹(よしとも)までで、この義幹が「多気太郎」とこちらでは呼ばれて親しまれているそうだ。

 歴史を紐解くと、多気義幹は八田知家(ともいえ)(小田知家)の曽我兄弟の仇討ち事件の時に、源頼朝に「義幹に謀反の動きあり」との換言で鎌倉に呼びざされ、大掾職を解かれ、所領を没収されて多気氏が滅びてしまいました。

しかし、この大掾(だいじょう)職は八田氏には行かずに、多気氏(平氏)と同族の水戸の吉田氏に引き継がれます。

そして、石岡の府中城が築かれます。
ということは多気氏はこの北条一帯が所領の中心で、1193年までは、常陸国の国府は石岡の地にあったが、それを治めていた多気大掾氏はこの北条地区に居を構えていたことになります。

今考えてもかなり離れています。
馬で行くにしても峠を超えていくか、ぐるっと回っていかなければなりません。

taketarou01.jpg

これが多気太郎の墓といわれる五輪塔です。
かなり大きな花崗岩のようです。
普通の墓に比べると見るからに大きいです。
時代的にも八坂神社の五輪塔よりは古いでしょう。(八坂神社:1537年、多気太郎:1193年?)

taketarou02.jpg

地元の人に大事にされているようです。
塔婆と花が置かれていました。
確かに多気太郎となっています。

taketarou03.jpg

 現地の説明石碑です。

taketarou04.jpg

この五輪塔の周りは畑や田んぼが広がります。

確かこの向こうの小田城の跡にも比較的大きな五輪塔があったように思います。
北条、小田、新治地区に残された五輪塔を調べて比べてみるのも面白そうです。

taketarou05.jpg

北条の商店街に通りももうハズレの場所なのですが、そこから比較的狭い道を少し入ったところにこの五輪塔があります。
この日も暑かったので、皆さん涼んでいるのでしょうか?
五輪塔は写真の先の右側にあります。



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つくば市北条 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/09/10 20:08
コメント
石の記録
ものすごく盛り沢山ですね。思いを致すことが多くてどこにコメントするか昨夜は考えがまとまらず、今朝目が覚めて最初に思いつくことを・・・
 大きな五輪の塔ですね。しかし16世紀の建立にしては傷みが激しいようで、どんな経緯があったのかと思います。五輪の塔は文字を刻まないですが、石に刻んだ記録は何百年でも残りそうな気がします。
 しかし実際見てみると、日本では苔で侵食されて文字が崩れ読めなくなっている例が少なくないようです。太陽の当たる側が崩れ、陰の側は無事ということがあります。
 かつては全て手彫りで文字を刻んだ石碑を見るとその根性に感心です。大作には文を作った人、書を書いた人、そして彫った人の名が在り、それぞれ「○○撰」「▽▽書」「△△鐫(せん)」と刻まれていたりします。
Re: 石の記録
忠顕さま

> ものすごく盛り沢山ですね。

丁寧に読んでいただいているのですね。ありがたいことです。
多くの人は写真をさっとみて、少し記事を読んで終わりだと思いますよ。

>  大きな五輪の塔ですね。しかし16世紀の建立にしては傷みが激しいようで、どんな経緯があったのかと思います。五輪の塔は文字を刻まないですが、石に刻んだ記録は何百年でも残りそうな気がします。

これは八坂神社の五輪塔のことですね。
こちらの多気太郎の方は12世紀の終わり?。これも怪しいですが文字は刻まれていないようです。

>  しかし実際見てみると、日本では苔で侵食されて文字が崩れ読めなくなっている例が少なくないようです。太陽の当たる側が崩れ、陰の側は無事ということがあります。
>  かつては全て手彫りで文字を刻んだ石碑を見るとその根性に感心です。大作には文を作った人、書を書いた人、そして彫った人の名が在り、それぞれ「○○撰」「▽▽書」「△△鐫(せん)」と刻まれていたりします。

私も刻まれたものは読めなくなったりするものが多いですが、室町頃のものから文字を彫って残したいと思うようになったのでしょうか。

それと、石岡などにはこんな大きな五輪塔がないし、殆どは墓石として使われているように思いますが、こちらの大きな五輪塔は供養塔として建てられたもののように思います。

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