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常陸国分尼寺と萩の花

 ここ石岡は常陸国の国府が置かれていたところで、国分寺跡、国分尼寺跡がともに国の史跡に登録され、最近になって国府跡も指定されて3つの国の史跡がある。

しかし、そのどれもが観光の設備としてはまだまだ不完全で物足りない。

 昨年秋に萩の写真を載せたら、「国分尼寺も萩がありますよね」と教えていただいた。
恥ずかしながら、ここは2本の桜とただ広いだけの広場が広がっているというイメージしか持っていなかった。

そこで、今年はもう咲き始めているだろうと思いやってきた。

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「法華滅罪之寺」と書かれていますが、全国に国分寺とともに建てられた尼寺の総本山は、奈良の「法華寺」です。
法華寺の正式名称は確か「法華滅罪之寺」だったと思います。

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万葉集より

○ 我が宿の萩の下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞもみてる (大伴家持)

 今の時期はこのくらいの感じでしょうか。秋風もまだ吹かないけれど、萩の花は咲き出している。

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 ○ 秋風の末吹き靡く萩の花ともにかざさず相か別れむ (大伴家持)

西暦758年に大伴家持は因幡守(鳥取県)に任じられて奈良を去ります。
別れの席で詠んだ歌だそうです。

こちらは友に、秋風に靡(なび)いている萩の花をお互いの髪に挿すこともなく分かれてしまいますね。
というくらいの意味でしょうが、昔の人の萩の花に対して心を寄せる思いが伝わってきます。

国分寺、国分尼寺は、741年の聖武天皇の勅願で全国に作られたと言われていますので、大伴家持が因幡に赴任した頃にはできていたのでしょう。

当時、常住する尼僧は10名だと言われています。
いつなくなったのかははっきりしていませんが、平将門に攻められた時に寺は焼かれ、財宝を池に埋めたとか、尼さんもひどい目に合わされたとか、その手の話はたくさんあります。

しかしその後再建もしたようですが、常陸大掾(だいじょう)氏が滅びる1590年にはなくなってしまっていたように思います。

今でもこのあたりは「尼寺ヶ原」(にじがはら)と呼ばれています。

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この国分尼寺は、中門、金堂、講堂などが一直線に並んでいたのだそうです。
そして、金堂、講堂をつなぐ回廊があったそうです。

その回廊のあったところにレンガを敷いてこのように回廊を再現しようとしています。
しかし、残念ながら広報も少なく、ここを訪れた方のどれくらいが古の姿を想像できるのでしょうか。

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現地の説明看板も、この萩の花の時期には隠れてしまいそうです。
その他の時期は看板は遮るものなくよく見えるのですが。
初めて萩の咲いている時期に来てここに萩の花を植えたのがわかる気がしています。

万葉集に歌われた花の中で一番多いのがこの萩の花だそうです。
それほど花として華やかさはないけれど、当時の人の心にのこる花だったのだろうと感じます。

山道や原に行けばこのあたりも萩の花がたくさん残っています。
でも庭に植える家庭は少ないでしょう。

大伴家持の父である大伴旅人が死の病に臥せっていた時に読んだと言われる歌を紹介しましょう。

○ 指進(さすすめ)の 栗栖の小野の 萩の花 散らむ時にし 行きて手向けむ  (大伴旅人)

でも私はこんなのよりも

○ 一つ家に 遊女も寝たり 萩と月 (松尾芭蕉)

なんてのも好きだな~。

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石岡市内 | コメント(10) | トラックバック(0) | 2012/09/23 21:39
コメント
「萩」に反応して、またまたお邪魔します。
萩という言葉には思いがあります。石岡小学校に入学したとき組の名前が「萩組」で、その名前の花があることを知ったのでした。
卒業のころは1組、2組になりましたが、最初は全部の組に花の名前が付いていました、幼稚園のようですが。それにしても当時は学年9クラスぶんの花の名前をよく並べられたと今になって感心します。ちなみに1クラス50人以上でした。

Romanさん、すごいですね高校生の受験生を教えてられたんですか。私の大学の友人で一番勉強のできたやつは今、予備校で大学受験生に数学を教えてます。あいつほどでななければ教えることはできないだろうと密かに尊敬しているものです。
Re: 萩
忠顕さま

> 萩という言葉には思いがあります。石岡小学校に入学したとき組の名前が「萩組」で、その名前の花があることを知ったのでした。

そうですか、珍しいですね。萩という字は「荻」と似ていて間違えそうですね。
東京には「荻窪」という駅がありますから。
私は小学1年から大学1年まで「萩山」という西武線の駅の近くに住んでいました。
この名前もそこが「萩花」が咲き乱れる場所だったからですが、子供心になんか田舎っぽくて恥ずかしい気がしていました。おかしなものですね。

> それにしても当時は学年9クラスぶんの花の名前をよく並べられたと今になって感心します。ちなみに1クラス50人以上でした。

小学校で9クラスx50人=450人 とは多いですね。
疎開で膨れ上がった時もあったようですが、忠顕さんはそんなに前ではないですよね。
私もたくさんいましたよ。
新しく小学校を立てて、分かれて、1クラス50人弱くらいでしたか。

> Romanさん、すごいですね高校生の受験生を教えてられたんですか。私の大学の友人で一番勉強のできたやつは今、予備校で大学受験生に数学を教えてます。あいつほどでななければ教えることはできないだろうと密かに尊敬しているものです。

あ、学生時代に家庭教師や頼まれて高校生も教えたことはありますが、ここで言ったのは中学3年生ですよ。
それにあまり出来のよくない子供です。出来のよくない子を教えるのは難しいです。
でもあまり教えるのではなく、自分からやらせないと子供は伸びません。
塾でも出来ない子は「お客さん」で、伸ばすためには倍以上手間がかかるので置いていかれます。
そして今時の家庭教師も「教えてもらう」というのが一番伸びません。

勉強の仕方を教えるのですが、これも難しいです。
No title
こんにちは、

またたわごとですが( ̄▽ ̄*)
昔から藤と萩の花はなぜかあまり好きになれません、
無秩序に垂れ下がる花が嫌いなのかとも思いましたが
どうも行き着くところは・・・
どっちの花も「花札カス札の代表の絵柄花」と思っているから・・
にたどり着きました(^^ゞ

子供の頃から花札の絵柄はよく見ていたので
藤と萩はつまらない花とすり込まれていたのでしょうね、
ばあちゃんがよく「♪手こずったら 藤カス捨てな♪」って花札めくってましたし。

ではー☆
kurokenさん

> またたわごとですが( ̄▽ ̄*)
> 昔から藤と萩の花はなぜかあまり好きになれません、
> 無秩序に垂れ下がる花が嫌いなのかとも思いましたが

これは嫌いな花を見せてしまいましたか。
kurokenさんがこんなのが好きだったらかえっておかしい気がします・
メタルフェチとはいかにも合わない。

> どうも行き着くところは・・・
> どっちの花も「花札カス札の代表の絵柄花」と思っているから・・
> にたどり着きました(^^ゞ

花札はよくわからないけど、図柄がきれいで絵だけは覚えています。
萩にイノシシですよね。
カスは確か萩だけで短冊も猪もない?

萩と藤だけがカスですか?
梅や、桜、菖蒲なども嫌いですか??

> ばあちゃんがよく「♪手こずったら 藤カス捨てな♪」って花札めくってましたし。

わはは。
なんだか「がばいばあちゃん」思い出しそうです。
常陸国分尼寺と復元ミス
美しい花の話題に不粋な話を書いてすみません。観光客を集めることは決して否定しませんが、史跡を事実を曲げて復元(?)するのはいただけません。
この常陸国分尼寺遺跡の南大門とされている箇所から出て、回廊や「北方建造物」まで含めて囲って南大門にもどる線(築地跡か)で構成される四辺形において、北辺と西辺は正方位(東西、南北)なのに、南辺と東辺は直角を保ったまま少し西に偏っています。約30cmとされる金堂土壇の形も北辺と西辺は正方位なのに南辺と東辺が直角を保ったまま少し西に偏っています。この西偏の度合が等しいので、築地跡と金堂土壇の東辺同士、南辺同士は平行線となっています(西偏は7度位か)。本来の常陸国分尼寺の伽藍配置の軸は約7度位西偏していたと考えます。それを復元(?)するときに正方位だとして工事してしまった。残念と言うしかありません。
グーグルマップで確認できます。
コメント訂正、高さが抜けていました
すみません。金堂土壇で「約30cm」とあるのは「高さ約30cm」です。「高さ」が抜けてました。ごめんなさい。
sanmao さま
こんにちは。
こちらにもコメントありがとうございます。

この常陸国分尼寺の回廊をイメージしたレンガ?道はあまりちゃんとした復元を考えている風はありません。
かなり前に国分寺跡とともに国の特別史跡に指定されたころに整備されたのではないかと思います。
「石岡の歴史」や「石岡市史」には測量図などが載っています。
確かにおっしゃる通りですね。
この北方建物群に厨房施設があったようですが回廊も一部だけでこんなぐるっと囲むようなものではなさそうです。
東側が少し角度がついていたのは回廊ではなくて塀のような構造物だったのではないかとも思います。

なぜこのような復元?がされたのかは理解に苦しみますね。
現地に行くとこの回廊もどんな意味をもつかなどまったくわからないです。ゆっくり散策してくださいという散歩道でしょうか?
このように見てくれる人が少ないのみ残念な結果になっているように思います。
南大門跡とか金堂跡となの表示もまったくありません。

手つかずに広場が残っているのがうれしいことではありますが・・・。


Re: sanmao さま
少し訂正します。
「石岡の歴史」を読むと
「尼寺の寺域は幅約3mの溝によって216mの方形に区画された二町四方であったと考えられていた。しかし、最近の調査例によると、東西一町、南北一町半の長方形を呈していた可能性が強いことが確認された。主要伽藍については、中門跡・金堂跡・講堂跡の基壇が残っており、礎石も残っているが、金堂跡などの正確な規模は把握されていない。このほか、・・・・・・・・

中門跡から講堂跡に接続する回廊跡があり・・・・  でもこれも一部のみです。

おそらく最初に考えられていた幅3mの溝による方形の区画を再現してしまったのではないかと思いますが・・・・
寸法的にはよくわかりません。

現地ではわから何のですがGoogle Mapではよくわかりますね。こんなになっているんですね。
西偏は磁北?
Romanさん
丁寧な再検証ありがとうございます。なぜこの事に気づいたか、種明かしをします。実は、武蔵国分寺も7度位西偏していたので気づきました。何故だろうと考えて、おそらく、と思いついたのが、北を磁石でとった、つまり磁北が軸なのだろうとの「思いつきの結論」を得ました。磁北は永年変化がありますし、地域によって異なりますから、これだけでは何とも言えないわけです。そこで、関東にある聖武天皇の「国分寺」をグーグルマップで観察してみたら、聖武天皇の詔勅によって諸国に金光明最勝王経を分けた寺(だから「国分寺」)と考えられる寺院は西偏していることが多いようなのです。まだ、全部をしらべ検証したわけでないので、仮説とすら呼べない段階ですが。一方、正確に南北軸の寺院(廃寺跡が多い)があり、こちらは聖武天皇の国分寺より古いことが多いのです。郡衙跡(ただしくは「評衙跡」でしょうが)とされている遺跡が近くにあることが多いのも気になります。私は、「国府」と「国府寺」ではないかと想像しているのですが。今のところは想像です。常陸国にもそんなセットがあるかも知れませんね。
Re: 西偏は磁北?
こんばんは。
当時磁北はわかったのでしょうか?
真北は北極星があるので簡単に分かったでしょうし、この北方向は配置に使われていたように思います。
磁北を意識しているという説は面白いですね。
また考えてみます
ありがとうございました。

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