小見川から府馬大クスまで

 千葉県の香取市は佐原市と小見川町、山田町、栗源町が合併して旧香取郡と香取神宮にちなんで香取市となった。
しかし、まだ佐原や小見川と言った方が私にはなじみもある。
とはいってもほとんど佐原をのぞいてはほとんどこの土地を知らない。

前に東庄町を訪れて、天保水滸伝の看板が目立ち、少し古臭いイメージがついてまわる。

しかし、先日府馬の大くすを訪れ、台地の上からこの一帯を眺めたら広い水田が広がり、FloodMapsでも大昔は小見川駅などからこの平野部は香取の海に沈んでしまっていたことが判明した。

そんなことを気にしながらまた国道356号線(利根水郷ライン)から県道28号線を旭市方面に車を走らせていました。

小見川駅近くから最初のうちは結構開けた街中で旧小見川町役場などはきれいになり、大きな建物もたくさんありますが少し進むともう田園地帯になります。

これも江戸時代に開拓されたのでしょう。そんな中少し古い物を探してみました。

IMG_1550s.jpg

「JAかとり」の手前に古いお堂と石仏やお墓などが立ち並んでいました。写真奥の建物がJA(農協)です。

IMG_1551s.jpg

特に書かれたものがありませんが、何が祀られているのでしょうか。

IMG_1553s.jpg

しばらく行くと旧山田町に入ります。
通り沿いに山田町の登録文化財の立て看板が置かれていました。
「薬師如来像」とありました。

IMG_1554s.jpg

でもここはお寺ではありません。大きな門が残されていますが、一般のお宅のようです。

香取市の薬師如来像などを調べて見ると、明治の廃仏毀釈で廃寺となったところがたくさんあり、それらの本尊などがこわされたり、あちこちに分散したと言う。

この薬師如来像は高さ30cmくらいの像だが室町時代に作られたものだと言う。
この像があったのは、田部西雲寺の下の医王山東光院善能寺という寺で、廃寺となりここ青柳家で保管しているのだと言う。(詳細はこちら

調べて見ると近くに「徳星寺」という寺もあったのでこちらにも行け良かったかもしれない。
明治になってすぐ出された廃仏毀釈は各日とても大きな影響があったのですね。

恨み節も聞こえてきます。

IMG_1556s.jpg

門の内側から表を眺めました。

IMG_1557s.jpg

この通りの場所から先の方を見るとこんもりとした森が見えます。
この森の上に府馬の大クスがあります。
雨が降ってどんよりとしていました。

omigawa2.jpg

FloodMapsで海面を+5mとしています。昔の地形が良く分かります。

昨日書いた「久保神社」の絵巻物と大六天宮が気になり調べたりしていましたが、結構面白いです。

昼間は仕事に出かけていますので、面白いと思っても記事にまとめるには時間が足りません。
またの機会に書きたいと思います。

毎日のブログ更新が3年9カ月休まずに続いていますが、なかなかまとめる時間はとれません。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/15 21:25

笹川港

 天保水滸伝の笹川繁蔵の里「千葉県東庄町笹川」の利根川にある港に行ってみました。

大利根河原の決闘舞台はこの辺りかと思ったのですが・・・・
でもこの小さな港。目の前の川は利根川ではなく黒部川です。

IMG_1660s.jpg

このバス停は1日1本。おでかけ号となっていました。今日偶然に走っているのを見ました。
マイクロバスです。

東庄町は「とうのしょうまち」と読みます。
この町には「東大社」という大きな神社があり(記事はこちら)、式年神幸祭が銚子との間で行われています。

IMG_1661s.jpg

茨城県で蝦夷征伐の頃の歴史跡などを見てきて感じたことと、千葉県に来て感じたことが随分違います。
東大社にもこの頃の大和朝廷の前線地であったような話もあります。

やはり九十九里の栗山川からさかのぼってこちらの東庄町の方に来たのでしょうか?
まあいろいろなルートがあったようです。
まだ布佐から利根町へのルートの探検が手つかずです。
時間が無いな・・・。


IMG_1662s.jpg


IMG_1663s.jpg


IMG_1668s.jpg

鯉屋旅館。川魚料理が中心の割烹旅館とありますが、ウエディングパレスとの看板もあり結婚式にも使われるようです。

IMG_1666s.jpg



IMG_1667s.jpg

右手の川沿いに明治3年創業の老舗「土善旅館」があります。横綱双葉山や歌手の三波春雄も泊まっていたという。

旅館に弓道場があるので弓道合宿や大会もあるようです。
明治3年創業の翌年には、利根川では外輪蒸気船「利根丸」が創業している。
ここ笹川にもこの蒸気船の大きな港があった。

こんな小さな港に大きな旅館が2軒。

IMG_1665s.jpg

この小さな川は昔の水運の名残だろうか?
この上流は笹川の町の方に続く。地図を見ても名前が書かれていない。
水運の発達した時に掘られた掘りなのかもしれない。黒部川に注いでいる。


小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/13 21:20

須賀山城跡

 天保水滸伝の記事を終わりにしたが、東庄町の中心にある諏訪大神のお祭りに「大木戸」地区の神輿が出る。

地名では大木戸公民館がある辺りで、先日紹介した笹川繁蔵最後の地の入口あたりの地区を言うようだ。

先日天保水滸伝史跡伝承館(東庄町観光館)の建物の前に、前には無かったかんばんが置かれていた。

IMG_1655s.jpg
IMG_1654s.jpg

この看板は昨年3月に建てられたようなので、前に来た時はそれより以前であったようだ。

IMG_2230s.jpg

須賀山城(すかやまじょう)はこのこんもりとした山の上にあった。

IMG_2229s.jpg

山の入口には「北総育成園」という障害者支援施設がある。
この建物は「紙工芸班作業所」となっている。シイタケ栽培なども行っているようだ。
その他に陶芸班などもあり、作品を作ってイベントや各種施設で販売なども行っているようだ。

下の施設?の駐車場に車を止めて城跡と書かれた案内板にしたがって山を登っていった。
登り口で施設の生徒さんのグループに会い、「こんにちは」と挨拶を交わしてから登った。

いつもこう言う時に、健常者より障害者の方達の方が気持ちよく挨拶してくれる。

IMG_2227s.jpg

山を登っていくと、所々に広場があり、伐採された木を束ねて積み重ねてあります。
薪にするのでしょうか。シイタケ栽培も盛んのようです。

IMG_2223s.jpg

山の上に到着し、右に曲がった先に看板を発見しました。

IMG_2225s.jpg

須賀山(すかやま)城跡とその説明看板

IMG_2224s.jpg

上の現地に掲げられた説明文を文字におこしてみると

「千葉常胤(つねたね)及びその一族と共に、源頼朝の挙兵に尽力した東胤頼(とうのたねより)は、その功により、文治元年(1185)に東荘(とうのしょう)33郷、更に三崎荘(みさきのしょう)55郷を拝領した。
胤頼は、はじめ上代前掛城(かじろまえかけじょう)に居城したが、文治6年(1190)に、この地に須賀山城を築き、妙見尊星王(みょうけんそうせいのう)を勧請(かんじょう)し、所領の経営と祭事につとめた。
その後、隣接地に森山城を築き、建保6年(1218)森山城に移った。
その後も、須賀山城には一族が居城したと思われ、東頼数(とうのよりかず)、教頼(のりより)、常綱(つねつな)等の在城が伝えられている。
須賀山城は、千葉介胤富(ちばのすけたねとみ)の森山城入城と共に破却されたといわれている。
尚、千葉胤富判物(原文書)に、森山城の「外郭部」として取り込まれていたと推定される記載がある。
須賀山城は、多郭雑形で、遺構は空堀と土塁の一部を残すのみで、
本丸跡は通称「シジミ台」といわれている。・・・・・・・・・」

どうですか? わかりますか。歴史に興味のある方はわかるかもしれません。
しかし常陸国国府の石岡周辺にいて聞く話は、すぐに平国香がどうしたこうしたとかのの話しか聞こえてきません。
千葉県には上総、下総、安房とそれぞれの歴史が繋がっていて理解するのも結構大変そうです。

昔の人の名前もまともに覚えられないのですから、記憶力の衰えた文系オンチな老人にはなかなか素直に話が入ってきません。こう言う時はしょうがないので一つずつネットで調べます。そして自分の頭で少し理解が出来たと思うと安心するのです。

まず千葉常胤ですがこの人の名前は聞いたことがあります。
「桓武平氏良文流千葉氏の一族。父は下総権介・千葉常重。上総広常とは又従兄弟。平安時代末期における下総国の有力在庁官人であった。官途名は千葉介(ちばのすけ)。千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。」と説明にあります。

上総広常は知っている。これは上総介(平広常)で、石岡の歴史にも源頼朝と佐竹氏討伐に石岡にやって来ている。大矢橋で佐竹義政を切った人物だ。(記事はこちら)、頼朝の見方をして最後は疑われて切られてしまった人物である。

平広常も千葉常胤も共に高望王の子供(長男は国香)である平良文の子孫だ。この付近は良文貝塚(記事はこちら)などもあり、良文の子孫が暮らしてきた場所であろう。

ではこの城を築いた東胤頼とはどんな関係なのか?また調べます。

「千葉常胤の六男。東氏、遠藤氏の祖。従五位の別称大夫を付し、東六郎大夫と称した。」とあります。
父の千葉常胤とともに源頼朝にしたがって、安房国へ逃れた頼朝への加勢をすると共に坂東武士団の頼朝加勢の原動力になったようだ。そして報償として東荘を拝領して(1185年)東氏を名乗るようになった。
その東氏の城がこの須賀山城で1190年に築城して16世紀半ばまで続いたが千葉 胤富(千葉氏27代)隣の森山城に移りこの城は廃棄されたという。

千葉氏も謎めいているし、今の千葉市(千葉荘)のあたりから見ると大分離れていて遠い感じはあったのでしょうね。
しかし、この地は霞ヶ浦、利根川の水運が発達していた頃には要の場所だったのでしょう。
利根川流域を抑える中間(海上郡と香取郡の中間)として重要な場所といえたのです。

IMG_2222s.jpg

山の上には小さな祠が祀られていた。これも調べて見ると「六所神社」であるらしい。

IMG_2226s.jpg

もう少し調べる時間が許せば理解も深まるのでしょうが、毎日適当に話題を提供はしているものの仕事もおろそかにはできません。いつまで続けることが出来るのか・・・。

妙見尊星王も気になるのですが、これは千葉県の寺を巡るとたくさん出てきますし、日蓮宗の寺では妙見菩薩の名前はあちこちで聞こえてきます。まあ今は千葉氏の守護本尊という程度にしておきます。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/27 21:22

須賀山東福寺

 千葉県東庄町(とうのしょうまち)は天保水滸伝の里として紹介しました。
そしてそこの少し山側にある千葉氏一族の東氏(とうし)の居城であった「須賀山(すかやま)城」跡を紹介しました。

その須賀山城があった山の麓に今日紹介する「東福寺」があります。

IMG_2217s.jpg

真言宗智山派 須賀山鏡智院東福寺。
正面のお堂と右側のお堂が美しい。
門の手前に大利根用水が流れています。

IMG_2208s.jpg

弘法大師の像が置かれている。

IMG_2209s.jpg

本堂の膜に描かれた家紋は「九曜星」で千葉氏の紋。 九曜星

IMG_2210s.jpg

上の説明によると徳一僧正の開山らしい。
徳一法師と言えば筑波山をはじめ茨城には山の中腹や上にたくさんある法相宗の徳一法師(平安時代初期)を思い浮かべるが、こちらは時代も300年程(仁安2年(1167))後になり、天台宗なので別人のようだ。

最初にあったという平山青年会館というのはここから街道を少し南の山の方に登った左手(東側)に入った辺りにある。

この地の領主、千葉氏千葉家中興の祖、五代千葉常胤が現在地に伽藍を建設し、薬師如来を千葉氏の守護本尊としたと。
現住職は57世だとか。

IMG_2211s.jpg

こちらは門を入って右側にある「経堂」

IMG_2212s.jpg

こちらは本堂横にある「不動堂」。こちらはかなり古そうだ。
姿のいいお堂だ。

しかし、いろいろ調べて見たが詳しいことがわからない。何時頃の建物なのだろうか?

IMG_2213s.jpg

江戸時代だろうか?

IMG_2214s.jpg

またわかれば後で書くかもしれない。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/29 14:04

100年の歴史を持つ小学校の分校が2つ廃校

 数年前から銚子へ月に数回出かけている。

霞ケ浦の北側や土浦側の南側を通って国道51号線で茨城県から千葉県に入る。

そして利根川を渡った国道356号(利根水郷ライン)を川に沿って走るか、混雑を避けるために利根川の北側の中州の道路を走ることも多い。

この中州は利根川と常陸利根川とに挟まれた地帯で、開墾によって整備されたと思われる田が広がる田園地帯である。

分校

P1130045s.jpg P1130046s.jpg

この通り沿いに小学校の分校の案内看板が2か所でており、前から

「いまどき、山の中でもないのにまだ分校なんてあるのか?」

と気になっていました。

しかし何度か通っているうちにこの看板が変化していることに気が付きました。

看板の「○○分校」の後ろに「跡」という文字が追加されていたのです。

まあもともと看板が古くて、分校などもうないものだと思っていたので少し意外な気がしました。

銚子に行く時間にもまだ余裕があったので見学して見ることにしました。

分校01

まず「香取市立新島小学校大東分校」(跡)です。

明治30年に寺子屋式で開校。
明治34年に校舎建設し、新島小学校大東分教場となる。
平成25年3月31日で閉校。(116年の歴史に幕)
最後の卒業生は3人で残りの10人が新島小学校に編入。

分校02

廃校後1年半以上過ぎ今では校舎(昭和62年新築)もほぼ取り壊され広い敷地が残っています。

分校03

もう一つも比較的近くです。

「香取市立小見川北小学校利北分校」(跡)

明治38年利根川で分断された地域の通学の便を計るため分室として開設
明治40年分教場
昭和8年 豊浦尋常高等小学校利北分教場
昭和48年校舎改築
平成7年 校舎新築
平成26年3月31日 閉校 (107年の歴史に幕)

こちらは大東分校廃校より1年遅れの昨春に廃校となりました。

分校04

こちらは5・6年生は本校に通うため、1~4年生のみが分校に通っていました。
閉校時の生徒数は13人(1~4年生)です。

こちらは廃校まだ間もないので、校舎もそのまま残っていました。
これは今後どうするのでしょうか?

分校05

こんなに近くに2つの小学校分校があったのには訳があります。

大東分校の住所は香取市附洲新田(つきすしんでん)1356-1で市町村合併前の佐原市です。
一方利北分校は香取市一之分目(いちのわけめ)番外7-3でもとの小見川町です。

大東分校は新島小学校がもっと西にありこのあたりは水郷地帯で舟を使ったりした移動が必要で一番離れた東端に分校を建てたものと思われます。

一方利北分校の本校は利根川の南側にあり、通うには利根川を舟で渡らねばなりません。

この中州の開拓地帯の歴史は古く、江戸時代に国の政策として開墾がすすめられたようです。
そのため、開墾農民が暮らすこのエリアにかなりの人が暮らしており、便宜を図るために分教場が設けられたと考えられます。

でもそんなところは日本中たくさんあり、分校もほとんどは統合されたり、独立した小学校となったりしています。

地元の分校はそこに暮らす人の子供たちや親にとってかなり利便性が良かったのでしょう。
それもとうとう少子化と全国の学校の統廃合がすすめられていく渦の中に巻き込まれてしまったのだと思います。

利根川の南側に国道356号線(利根水郷ライン)を佐原から小見川方面(銚子方面)に走っていくとバス停などの標識に「一之分目」(いちのわけめ)と「三之分目」(さんおわけめ)という」地名が出てきて「あれ?」という気がします。

いまどきの地名としては少し古いイメージですよね。
どういう訳か「二之分目」という」地名はないようです。
江戸時代に区画整理をした時につけられた区分名が村名(一之分目村など)となり、そのままいまは香取市の住所となって残されています。

この地域が利根川北側の中州側の低地と、南側の地域に分断されましたが、行政としては一体に運営されてきたことが推察されます。

江戸時代に入り徳川家康の命令で利根川は江戸湾から銚子に流れが変えられたのです。
こんな分校の廃校ということから、私は昔はどんな暮らしがここにはあったのかを少し考えさせられました。

もう少し調べて記事を書きたいと思っていましたがなかなか手が進みません。
記事が古くなってしまいますのでまずは感じたことなどを綴ってみました。


小見川・東庄 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2015/01/13 20:50

木内大神と木内集落(1)

 利根川を小見川大橋で渡ってそのまま真っ直ぐ成田方面に進むと、少し行くと木内(きのうち)という信号がある。
この少し先の右側に池があるがこれは「木内堰」と呼ばれているようなので、水田の灌漑ように川を堰止めたものだろう。

この池の山側に入ったところにこの辺りではかなり古いという「木内大神」(きのうちだいじん)があると知り、探しながら狭い道を登って行った。

P2030047s.jpg

かなり古くから集落があったような雰囲気で板碑や石仏があちこちに見受けられる。

P2030047s2.jpg

観音菩薩や如意輪観音像などが並んでいる。

P2030048s.jpg

宝篋印塔も置かれていた。何時頃のものだろうか。

P2030049s.jpg

場所は集落の集会場「木ノ内区民センター」と書かれた場所。

P2030051s.jpg

そして変わった梵字の石板碑が置かれている。これも模様がある。

P2030052s.jpg

そしてそこから少し上ったところに大きな古木(スタジイ?)があり、その周りにたくさんの下総?板碑が並んで置かれていた。
永年信仰されてきた証なのだろう。迫るような迫力がある。

この先にあるという「木内大神」に期待が高まる。

このあたりは神社のことを大神と呼んだり、書いたりしている所がたくさんある。
茨城の方ではあまり見かけないが・・・。

P2030053s.jpg

明日、十二座神楽が残されているというこの神社(木内大神)を紹介します。

小見川・東庄 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2015/02/28 20:38

木内大神と木内集落(2)

 昨日書いた木ノ内区民センターからさらに100m程進んだところに「木内大神(きのうちだいじん)」があった。

辺りは神社の古さを思わせる樹木がうっそうとしている。

P2030055s.jpg

通りの横に通りの方向と平行に入口鳥居が置かれている(東向き)。

P2030058s.jpg

そして、参道を少し進むと参道は右にカーブして正面に拝殿が見える。

P2030059s.jpg

正面が神社拝殿(南向き)で、左手に舞台がある。

P2030056s.jpg

創建は多くの古い神社が創建されたと伝わっている大同年間(806~810年)とされる。
主祭神は穀物の女神である豊受姫命(伊勢神宮外宮の神)。

ウィキペディアによれば「大納言四条隆房がこの地を領地とした時に保護し、鎌倉時代には東胤頼の二男木内胤朝が領し社殿を造営、神領を納め一族の祈願所とした。千葉氏や北条氏の崇敬が厚く伏見天皇の直筆書が献ぜられている。」と書かれている。

よくわからないので更にウィキペディアで調べて見る。

・大納言四条隆房:藤原隆房(ふじわらのたかふさ):平安時代末期から鎌倉時代初期(1148~1209)にかけての公卿。
平清盛の娘を正室とし、加賀国・因幡国の国司などを歴任したそうなので、この上総介などにもついたのか?
建永元年(1206年)に出家し引退。法名は寂恵。

・東 胤頼(とう たねより):平安時代末期から鎌倉時代初期(1155~1228年)の武将。千葉氏の一族。千葉常胤の六男。東氏、遠藤氏の祖。胤頼は六男であり従五位の別称大夫を付し、東六郎大夫と称した。
・・・源頼朝が三浦半島での敗北で安房に逃れた時に頼朝勢に加勢して関東での頼朝の勢力拡大に一役買っているようだが晩年は出家して法然の弟子となり、法阿弥陀仏(法阿)と称したそうだ。

これ以上は調べるのも時間がかかりそうなのでこの辺でギブアップ。

P2030062s.jpg

この舞台では香取市無形文化財に指定されている十二座神楽が3月3日に奉納される。

P2030073s.jpg

上の説明に寄れば、江戸時代後期から神社関係者で神楽は奉納されてきたようだ。
そして明治初期には青年たちも一緒に6日間祭事の前は共に寝起きし、神楽を奉納したという。

これらは多くの神社で似たようなことが昔は行なわれていた。

石岡には染谷、柿岡、根小屋にも同じような十二座神楽が残されている。

もう少し明日に続きます。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/03/01 15:28

木内大神と木内集落(3)

 早いもので昨日からもう3月だ。

一昨日は太陽も照ってかなり暖かく気持ちが良かったが、昨日は雨となってあまり気温も上がらなかった。
雨も花粉症にとってはありがたいことであるが、3月はあまり辺りを散策することは控えることになりそうだ。

今日はまた太陽が戻ってきた。
夕焼けも復活。

昨日EMSで郵便局からイギリスの孫に本などを送ってきた。
今月で孫も2歳になる。秋には日本にまた来てくれそうだ。

さて、小見川の木内大神を紹介しているが3回目となる。
鎌倉以降、千葉氏一族の東氏、木内氏と続いた氏族の祈願所としてこの神社は発展してきたようだ。

P2030060s.jpg

辺りは木々がうっそうと茂る。
古木の前の狛犬は比較的新しいようだ。

P2030068s.jpg

こちらが神社の本殿。

神社の説明板に寄れば、「天明7年(1787)に正殿を改造し、又、大正9年本社、拝殿、社務所を改造している。」と書かれている。
これは正殿? 本社? とすれば1787年に改造され、また大正9年にも改造されたものか?

P2030069s.jpg

なかなかきれいな造りです。

P2030071s.jpg

境内にはかなり年月を感じる古木(スタジイ?)が目立ちます。

P2030072s.jpg

上の写真は猿田彦が祀られています。

P2030075s.jpg

神社の御神木は本殿近くに大きなスギの木がありました。
でもやはりこのようなスタジイは迫力があります。

明日は3月3日でこの神社の祭日。木内(きのうち)神楽が奉納されます。

小見川・東庄 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/03/02 19:40

西音寺(1)

小見川の木内大神を訪問した後に、近くのもう一つ気になる場所へ行きました。


P2170077s.jpg

天光山 良忠院 西音寺。 浄土宗(鎮西派)

康元元年(1256年)荒見胤村(東胤頼の甥)が創建。僧 然阿良忠が開山。

その後250年ほどは寺門を閉ざしていたという。それを室町時代末期の永禄5年(1562)に秀誉讃公上人が森山城主東胤富の帰依をうけて,再建された。

P2170081s.jpg

手前に左右それぞれ3体の地蔵。 六地蔵

P2170082s.jpg

立派な屋根の本堂。
1676年に火災で焼失したが、1685年に再建された。
それから現在まで330年間数度の修理を実施したとのこと。

P2170086s.jpg

本堂入口の上には龍の彫り物

P2170087s.jpg

本堂内部にも大きな龍。本尊は阿弥陀如来

P2170083s.jpg

境内の大イチョウ。(樹齢は本堂再建の頃からと思われ、約330年くらいか)

冬場のため葉は落ちていたが見事なもの。
この根が出たようになっている突起物を乳根(ちちね)と呼ぶそうです。

秋の黄葉は見事なようです。また今度その頃に訪れて見たいと思います。

P2170084s.jpg

観音堂?

P2170100s.jpg

「奉修四十九堂・・・・」と書かれた紙がたくさん貼られていました。

P2170101s.jpg

このお寺は見どころがいっぱいあります。
明日もう少し載せます。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/03/03 21:03

西音寺(2)

 香取市西音寺は小見川と笹川のほぼ中間にあります。
比較的低地でまわりは田圃などが広がりますが、その中に少し盛り上がった小山にあります。

P2170089s.jpg

この鐘楼堂は平成元年に、旧小見川町の篤志家より寄進建立されたものだそうです。

P2170090s.jpg

鐘には阿弥像や天女像?が鋳込まれています。

P2170092s.jpg

下部の花模様。どのようにして造られたものか?
この梵鐘は一般的な和鐘ではなく「朝鮮鐘」と呼ばれる梵鐘の系統らしい。

P2170093s.jpg

飛天?

P2170094s.jpg

P2170091s.jpg

鐘楼堂の天井には龍の絵が描かれている。

P2170096s.jpg

この鐘楼堂はまだ新しいようだ。
しかし、まわりは殺風景なところでもあり、春や秋には銀杏の木とともに境内を美しく彩ってくれるでしょう。

P2170098s.jpg

P2170085s.jpg




小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/03/04 19:55
« Prev | HOME | Next »