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茨城の難読地名(その11)-安食

難読地名11

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

安食 【あじき】 つくば市、下妻市
安食 【あんじき】 かすみがうら市

安食(あじき)は小貝川流域の東側がつくば市で、西側が下妻市である。
現在の住所表記では下妻市の大字名は消えている。

この安食地名は全国にあり、アジキ、またはアンジキと読む。

他の地域の例としては
<アジキ>
1、安食 (アジキ) - 千葉県印旛郡栄町 (他に安食台、安食卜杭新田 、安食卜杭(隣の印西市))
2、安食 (アジキ) - 岐阜県岐阜市(他に安食志良古 (アジキシラコ))

<アンジキ>
3、安食西、安食南(アンジキニシ、アンジキミナミ) - 滋賀県犬上郡豊郷町
4、安食中町(アンジキナカマチ) - 滋賀県彦根市

名前の由来についてはさまざまで、確定したものはありませんが、

1)、飢餓があった時でも安心して食べられる場所という説
2)、アジ(崖)、キ(処)という意味で、アイヌ語由来の崖地の意味とする説
3)、安食地名の中の滋賀県犬上郡豊郷町にある「 阿自岐神社(あじきじんじゃ)」がその名前の元になっているとする説

特にこの3)の説は、この豊郷町にある「阿自岐神社(あじきじんじゃ)」はかなり古い神社で、1500年前の名園が残されているといわれています。神社に祀られているのは古事記などに登場する「阿遅鉏高彦根命(アジスキタカヒコネノミコト)」です。阿治志貴高日子根、味耜高彦根などとも書きます。
この神様は、大国主神と宗像三女神のタキリビメの間の子供とされ、日本の神の中では素性の良くわからない謎の多い神とされています。詳細はここでは省きますが、この神社の説明によれば、

 この場所は、応神天皇の頃(5世紀頃か?)百済から渡来人であるアジキ氏が住んだところとされ、そのアジキ氏が祖先を祀るために阿自岐(あじき)神社が建立されたといわれています。池泉多島式と呼ばれる古式庭園の中に社殿はが鎮座しています。
この庭園は周辺の田畑を灌漑する用水池を原型とし、これを荘厳したしたものと考えられていますが、別な言い伝えでは、日本に漢字を伝えた王仁(わに)氏を招いて庭園を造ったとも言われています。
王仁(わに)氏は日本書紀や古事記に登場する百済から日本にやってきた渡来人で、日本に『論語』『千字文』(儒教と漢字)を日本に伝えたとされる人物です。

地名としての「安食(アジキ)」はこの「阿自岐(アジキ)氏」が由来というわけですが、何しろ5世紀頃の話ですので、明確にはわからないといったところでしょう。
しかし、この滋賀県豊郷町は「近江商人(おうみしょうにん)」発祥の地とも言われる街です。
この近江商人が「三方よし(売り手によし、買い手によし、世間によし)」を商売の心得として説き、各地を行商して歩き、商売の基本が広がりました。

このアジキ、アンジキ地名もその近江商人と関係があるのかもしれません。

また古事記などでは「アジ」=「可美しき(うましき)」と同意語として使われていますので、「アジキ」の「アジ」には美しいというような意味が込められていたのかもしれません。このため「アジキ=美しい処」などという意味があるのかもしれません。

かすみがうら市(旧出島村)の安食(あんじき)地名については、明治22年に安食村・柏崎村・岩坪村・下軽部村が合併して「安飾村」ができました。この「安飾」という名前がしばらく使われていたので、「安食」ではなく、いろいろな施設に「安飾」の名前が残されています。
地元の説明ではこの安飾を村の名前に使う時に、古代・中世の名前を復活させたとしていますので、大昔は「安飾=アンジキ」があって、それが「安食=アンジキ」に変わっていったのかもしれません。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/04 10:07

茨城の難読地名(その12)-大歩

難読地名12

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

大歩 【わご】 猿島郡境町

 この「大歩」と書いて「わご」と読む地名は全国の地名を調べてみましたが、他には見つかりませんでした。
各、難読地名の紹介がなされているサイトなどでもほとんど意味不明なものばかりです。

産経ニュース「難読地名を行く-茨城編」の中で、境町歴史民俗資料館の初代館長、椎名仁氏の著書「境町の歴史散歩」の内容を紹介しています。 これによると

 「アイヌ語の『湿地』を意味する地名だともいわれています」

とあり、 「わご」はアイヌ語で「湿地」を意味しており、土地柄から名付けられたのではないかという説が紹介されています。
また、その中に
「永禄10(1567)年の文書に『泉田郷の内宇和後』、元和6(1620)年の文書に『泉田の内うわこ村』とあります」。
とも書かれています。

この大歩(わご)地区の南に、現在も「西泉田」という大字があるため、この「内宇和後」(うちうわこ)が 「わご」 に変化したものではないかと書かれていました

でも「大歩」という漢字が当てられた理由はどこにもありません。

わけがわからない地名の多くが、「アイヌ語」「古アイヌ語」「縄文語」ではないかといわれ、それで何となく納得させられてしまうのですが、ここに書かれている話はどうにも理解ができません。

上に紹介されている内容からわかるのは、「わご」または「わこ」と呼ばれる地名が江戸時代の前からあり、昔は「和後」と漢字で書かれていたということです。

「わご」そのものに「湿地」という意味が、私にはアイヌ語で結びつかないのです。

湿地を意味する言葉として使われている「アイヌ語」として調べてみると、「トマ」「ニタ」「サ」などがあります。
これらは北海道にこの語がもとになったという地名がたくさんあるようです。

では、この「大歩(わご)」のあたりを地図で見てみましょう。
この場所は「関宿(せきやど)」という、江戸時代の水運の一大基地であった場所の少し東側です。

この地で利根川は荒川と分かれるのです。 
でもこれは徳川家康から3代に亘っての大工事であった「利根川東遷」事業によるものです。

この事業の前の地形はどのようになっていたのでしょうか?

家康は東京湾に注いでいた利根川を、このあたりで銚子の方に流れていた常陸川につなぎ変えるために「赤堀川(あかほりがわ)」を掘削して利根川の一部にしました。

確かに昔の地形を想像すると「湿地」であったのかもしれません。
でも「輪(わ)河(ご)」、「和(わ)河(ご)」として、河(川)の曲がっている場所、または河が合流している場所などにつけられたのではなかと思われます。

全国の郵便番号簿で「わご」「わこ」などの付く地名を探してみると、たくさん「和合」「和郷」(わごう)という地名が見つかりました。

・秋田県大仙市 和合
・山形県山形市、朝日町 和合
・新潟県新潟市 和合
・富山県上市町 和合
・長野県阿南町 和合
・岐阜県大垣市、瑞浪市、 和合 、各務原市 蘇原和合町
・静岡県浜松市 和合
・愛知県東郷町 和合

その他、「和郷(わごう)」という地名も広島県と長崎県にありました。

この「和合」という地名もおそらく 河の曲がっているところや、川が合流したりする場所に多くつけられていた名前のようです。
しかし、「和合」という漢字の持つ魅力で、いつの間にかこの字が充てられたものが多いように思われます。
ところで埼玉県の和光市の名前は、市になる前は「大和町」でしたが、神奈川県にすでに「大和市」があったために、公募でつけられた名前です。
しかし、このあたりは新羅の人たちが開墾した土地で「新座」「志木」などは「新羅」(しらぎ)が関係している地名のようです。

さて、では「大歩」という漢字が何故この地に充てられたのでしょうか。
前に述べたように、豊臣秀吉の「安土桃山時代」から家康の「江戸時代」頃には「内宇和後」「内うわこ村」などと記載されていたといいます。

これについては何も資料がないので、大胆な推測をしてみました。

豊臣秀吉が行った太閤検地で全国の田畑の測量がなされました。
この時に、田んぼの大きさによく使われる面積である「1反(たん)」が、それまで360歩(ぶ)であったのを300歩(部)に変更したのです。
今でいえば1歩は約1坪です。畳でいえば2畳ですね。ですから1反は300坪 (約1000 m2 )です。

しかし、これ以外に1反の2/3、1/2、1/3という単位が存在していました。
これを「大歩」「半歩」「小歩」と書き、特に関東では良く使われていたようです。

これによれば「大歩」は約200坪の面積となります。

太閤検地後のこのあたりの田んぼが「大歩」すなわち、約200坪単位で区切られていたなどということはなかったのでしょうか?

これは私の単なる想像にしかすぎませんが、地名を考える時に一つの参考にはなるかもしれませんね。

ところでこの堺町は「猿島郡」にあるのですが、この地も他所の地域の人は読めないようです。
「猿島=さしま」と読みます。

「猿島茶=さしまちゃ」としての茶どころとして有名ですので知っておられる方も多いかもしれません。

でもこの「猿島郡」は常陸国ではなく、下総国です。
利根川上流域は昔は下総国が多いのです。神社も鹿島神社は少なく、香取神社がたくさんあります。

<関連地名>
猿島郡五霞町幸主 【こうしゅ】
猿島郡五霞町小手指 【こてさし】
猿島郡境町内門 【うちかど】
猿島郡境町下砂井 【しもいさごい】
猿島郡境町百戸 【もど】

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/05 07:55

茨城の難読地名(その13)-圷

難読地名13

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圷 【あくつ】 城里町(上圷、下圷)、水戸市(圷大野)


  この「圷(あくつ)」という字は茨城以外ではあまり読めないでしょう。
しかし茨城県には「圷:あくつ」というお名前の方が多いため、一般に読める方もたくさんいます。

「圷」の意味は漢字が示す通り「下の土」です。 これもその言葉を表すために作られた造語が元なのではないかと思います。
この反対語は「塙(はなわ)」です。

でもなぜ、この漢字が茨城県に多いのでしょうか。

柳田國男が昭和10年に「地名の研究」という本を書いていますが、この中に「アクツ、アクト」という名前の地名を探して研究しています。
その中で、下総に「阿久津(アクツ)村」地う地名を取り上げて、こも阿久津は水運の発達していたときに重要な船着き場であったがこらは違うだろうという。一般に漢字の「津」というのは湊(みなと)を意味することが多いのだが、「アクツ」という言葉そのものが「低地」(特に川の近くの少しジメジメした場所)を指していると述べています。

この中に常陸国志第三、那珂郡常石郷(トキハ)の條に「阿久津は常陸の俗にいう低き地をさして呼ぶ名にて、多くは川に添ひたる所なり、或は圷の字を用ふ。今も常盤村の内にて那珂川に添ひたる地をなべて阿久津と称す。」

また、アクツと同意語として「アクト」「アクド」などをあげていて、「阿久戸」「悪戸」「悪土」「悪田」「悪田原」安久田」などの地名を列挙しています。

城里町にある「圷」「上圷」「下圷」と呼ばれる場所ですが、石岡の方から北へ真っ直ぐ続く「石塚街道」の石塚地区から先は急激ながげとなって下っていて、その下にある地区の名前です。の場所も那珂川に添った場所です。
城里町の前は「桂村」でした。

また水戸市の「圷大野」ですが、ここは那珂川の河口の方に近く水戸駅の東側です。

<参考地名>
福島県郡山市阿久津町
栃木県さくら市上阿久津
栃木県塩谷郡高根沢町上阿久津
栃木県塩谷郡高根沢町中阿久津
群馬県高崎市阿久津町
群馬県太田市阿久津町
群馬県渋川市阿久津
秋田県横手市大雄阿久戸(あくど)
青森県弘前市悪戸(あくど)
秋田県能代市悪戸(あくど)
秋田県能代市鵜鳥悪戸(あくど)
秋田県能代市下悪戸(あくど)
秋田県能代市中悪戸(あくど)
秋田県大仙市南外悪戸野(あくとの)
秋田県能代市上悪土(あくど)
山形県東置賜郡高畠町安久津(あくつ)
岐阜県郡上市八幡町安久田(あくだ)
静岡県磐田市安久路(あくろ)

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/05 21:34

茨城の難読地名に思うこと

茨城の難読地名シリーズとしてブログを書いているが、対象となる地名が100以上あるのでどこまでまとめられるかわからない。はじめてから後悔する有様で情けないやら・・・・

ところで、私の名前「進」という単純な名前。進なんて当時流行っていたような名前だったように思う。まあ親としては確り考えてもらってつけていただいたに違いない。両親共に他界してしまっているが感謝である。

だが、この名前で社会人と成ってから今まで笑われたことが2度ある。

1度目は会社に入って数年後の40年近く前のこと。関西方面のお客さんの所に打ち合わせに行ったときに名刺を出した時に、相手はすぐに笑顔に成られた、あ、あの方と同じお名前ですね」と。
東京ではあまり吉本のお笑いはテレビ放映もしていなかったが、関西はこの名前は超有名だった。でもお笑いではあったが、悪く言う人はおらず、みな褒めていた。23歳の若さで吉本新喜劇の座長となった喜劇役者だった。とうとう今にいたるまでこちらの地域では放送されず、直接お笑いを聞いたことがない。

もう一つは、インドネシアでのこと。海外出張でジャガルタのホテルに宿泊したときのこと。宿泊者名簿に名前を記入し、部屋にはいった。すると夜中に見知らぬ男から部屋に電話がかかってきた。「susumu susumu・・・」と連呼された。そしてなんとなく笑い声も・・・・・
夜中だし、仕事の準備もあり電話は適当に切ったが、後からこの名前がいけないのだということが分かった。
susu=おっぱい、mu=あなた で「susumu=あなたのおっぱい」だという。

現地のことばを知らないと、自分の名前を連呼してしまうかも知れず、これはまた困ったことである。この時ばかりは自分の名前が違うほうがよいと思ったものだ。

でもこのsusu(スス)という発音は口をつぼめるので赤ん坊が最初に乳を吸う口元に似ている。
赤ん坊が最初に発することばはできるだけ簡単なことばになるだろう。「アバ」「アッパ」などこれらのことばは数千年も前の日本に住んでいた縄文人の言葉を理解するにも役に立つと思う。

英語のwater(水)もアイヌ語のwaka(水)もどこか似た発音だと思う。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/06 14:00

茨城の難読地名(その14)-女方、女化、男神

難読地名14

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女方 【おざかた】 筑西市(下館)
女化 【おなばけ】 龍ケ崎市、牛久市
女沼 【おなぬま】 古賀市
男神 【おがみ】 かすみがうら市

全国に「女」や「男」という字が入る地名は数多い。 でも茨城県には意外に少ない。
上の4つがあったが、最初の女方=おざかた は読めないか。

少し由来を調べてみた。

1) 女方【おざかた】

女方は筑西市(旧下館市)の鬼怒川左岸にあります。下館駅の西側、「川島」駅の南側にあります。
この鬼怒川左岸の台地(河岸段丘)には「女方遺跡」と呼ばれる弥生時代中期の遺跡があります。
この遺跡からは「再葬墓」の存在が確認されていて、とても貴重な遺跡といわれています。
再埋葬というのは、一度埋葬して白骨となった人骨を壺(土器)に入れて埋葬しなおすというものです。
またその前の縄文時代の遺跡「本田前(ほんでんまえ)遺跡」もあります。
また出土した土器の口の部分に人面が形つけられたもの(人面付壺形土器:東京国立博物館所蔵)が発見されています。

また江戸初期の17世紀半ばには鬼怒川を水運として使うための河岸(女方河岸)ができていた。
女方の地名が江戸時代初期から使われていたことは判明したが、いつごろから使われた言葉なのかわからなかった。

この女方は弥生人の祈りの場であったのかもしれません。
また鬼怒川もかなり暴れ川であったのでこのあたりの地形に関係しているのかもしれません。

全国の「女」と付く地名の多くに名前の由来に伝説がついているものが多くあります。
この女方(おざかた)にも平将門伝説がありました。

「将門には正妻と言われた「君の前」のほかに妾が何人かおりました。その中の一人「桔梗の前」はとても美人で将門は特に可愛がっていました。そして桔梗の前は、この女方の「女館」に住んでいました。
しかしこの桔梗の前は将門を狙っていた藤原秀郷(俵藤太)が送ったスパイだったのです。
将門には何人も影武者がおり、また不死身であり、どうしても倒すことができなかったのです。
しかし本物はこめかみに弱点があることをこの桔梗の前が藤原秀郷に教えたため、将門はついに倒されてしまいました。」
(御伽草子の俵藤太物語)
その場所がこの女方だというのです。
こんな話を聞くと「女館(おんなかん)」が「女方(おざかた)」に変化したとも考えられますね。

それにしても「館(やかた)」という字がつく歴史的に重要な「下館(しもだて)」という地名が消えて、筑西市になってしまったのはさみしいですね。

2) 女化【おなばけ】

女化(おなばけ)は住所表記では牛久市女化町となっていますが、ここにある「女化稲荷神社」は龍ケ崎市馴馬町の飛地になっています。また女化稲荷神社は少し離れた牛久市の女化原に奥ノ院があります。

この「女化(おなばけ)」の名前の由来はそれほど古くは無いようで、女化原に伝わるキツネの伝承によるといわれています。
女化(稲荷)神社の創建ははっきりしませんが、室町時代末期の1509年に創建された説やもっと前からあるともいろいろな説があるようです。この神社の祭神は「保食神(うけもちのかみ)」で、昔の神社名は「稲荷大明神」と呼ばれたものが、「女化稲荷社」となり、明治2年に「保食神社」に変更されたのですが、また明治17年に「女化神社」に改名されています。

「 むかし、根本村(現在の新利根村根本)に忠五郎というやさしい若者がいました。
 ある日、土浦で筵(むしろ)を売っての帰り道、女化ヶ原(おなばけがは)にさしかかると一人の猟師が眠っている大きな白ぎつねを射ようとしていたので、忠五郎が大きなせきばらいをしてきつねを逃がしてあげました。「ひとの仕事を邪魔しやがって」と猟師は怒りましたが、筵の売上全部を出して謝りました。
 その夜のこと、忠五郎の家に若い娘と老人がたずねてきました。「奥州から鎌倉へ行く途中、道に迷って困っています。どうか一晩泊めて下さい。」忠五郎は二人を泊めてあげました。

 翌朝、忠五郎が目をさますと、下男に路銀(お金)を持ち逃げされてしまったと娘が泣いていました。 そこで娘は忠五郎の家にしばらく居ることになりました。
 八重という この娘は、この世のものとは思われない美しさで気立てのやさしい働き者で、やがて忠五郎の嫁になりました。
 幸せな家庭に8年の月日が流れ、鶴、亀次郎、竹松という三人の子供に恵まれました。

 ある秋の日、八重は竹松の添寝をしているうちに寝入ってしまったところを遊びから帰ってきた子供たちが見ると、母親に大きな尻尾(しっぽ)が出ているではありませんか。
 「大変だ~、おっ母かあがきつねになっちゃった~!」 と腰を抜かさんばかりに驚き、父親のところへとんでいきました。
 忠五郎が急いで帰ってみると八重の姿はなく、
 「みどり子の母はと問わば女化の原に泣く泣く伏すと答えよ」
という書き置きだけがありました。

 忠五郎が三人の子供を連れて、きつねの足跡を追ってくると、森の中に穴があり、そこはあの女化ヶ原でした。
 「おっ母!出て来ておくれ。」と涙ながらに呼びかけました。すると中から
 「こんな姿になって、もう会うことは出来ません。」と声がしました。
 「どんな姿でも驚かないから出て来ておくれ!」
 「ほんとうに驚かないでくださいね。」と一匹のきつねが穴から飛び出して、子供たちの顔をジーッと見つめ、
 「私がおまえたちの守り神になります。」と泣きながら走り去りました。
 この穴は、女化稲荷の北方300m位の所にあり、「お穴」として祀まつられています。」
(牛久市観光協会、娘に化けた狐のはなし(女化原の狐伝説)より)

また後日談として、この三人の子供の末っ子「竹松」の子孫が 戦国時代の牛久城主岡見宗治に仕えた武将「栗林左京亮」の家来となり、その後大活躍した「栗林義長」で、キツネのご加護で敵を倒すことができ、この女化神社を建てたとの話もあります。

またこの地を廻っていると、「女化騒動・牛久助郷一揆」の看板を見ました。
1804年10月に、この女化原に周辺55ヶ村の百姓たちが徒党を組み、牛久宿問屋の麻屋治左衛門の居宅などを打壊して騒動となりました。これは助郷制度という制度に悩む近隣の村の農民たちが、その制度の延期を測る名主などに反発しておこしたものでした。 この場所は、幕府の直轄天領で、ここに鎮圧に駆け付けたのが「土浦藩」と「佐倉藩」で、2つの藩の先陣争いも見られました。

いずれにしても女に化けたキツネが地名の由来になっていると考えられる場所です。

3) 女沼【おなぬま】

女沼は地名では「おなぬま」と読むが、近くを流れる「女沼川」は「めぬまがわ」と読む。
女沼川は茨城県と栃木県との県境に源を発し、利根川にそそぐ一級河川です。
また女沼とよばれる地名はこの川に添ってありますが、現在は古賀市ですが、合併前は総和町です。

この地域は川が数本入り組んでおり、このあたりに沼があっても不思議ではありません。
農業も盛んなようで「小森谷(こもりや)」さんという名前の方が多い地域です。

全国的に見ると「女沼」「化女沼」などの地名や沼の名前がありますが、その多くに伝承としての昔話などが残されています。
この古賀市の女沼にまつわる話も探してみましたが、今のところ見つかっていません。

4) 男神【おがみ】

男神はかすみがうら市の旧出島地区、牛渡(うしわた)と安食(あんじき)とを結ぶ線の中間あたりにあります。
静岡の牧之原には「男神」「女神」「鬼神」という3つの名前が隣接してある場所がありますが、この近くの地名は「男神」だけです。
しかし、この近くの「歩崎観音」 には「竜女」伝説があります。

また、この地には「男神遺跡」「男神貝塚」といわれる縄文時代の遺跡があります。
文禄4年(1596)の知行目録に、「おかみ」とありますので、それ以前からある地名だとわかりますが、地名の由来はわかりませんでした。
多くの男神地名には「男の神」ということでスサノオやタケミカヅチなどの神が由来であったり、大岩信仰が由来の元であったりします。
しかし、この場所はもしかしたら「拝む」などが言葉の語源という場合もありそうな気がします。

なお、石岡市葦穂地区の小字名に「女堰(おんなぜき)」という地名がありますが、これには伝説として、「用水路に流すための堰を作ったが、何度つくっても大雨などで壊されてしまうので、女を人柱にたてて工事したところ、それ以降堰が壊れ亡くなったので名付けられたという」 などという今では考えられないような話が伝説として伝わっています。

全国の女・男が付く地名を調べましたので以下に記載しておきます。

<女の付く地名>
北海道函館市女那川町(おながわちょう)
北海道網走郡大空町女満別(おしゃまんべつ)
青森県青森市浪岡女鹿沢(おめがさわ)
青森県弘前市青女子(あおなご)
岩手県奥州市衣川区采女沢(うねめざわ)
岩手県奥州市衣川区女石(おんないし)
岩手県二戸郡一戸町女鹿(めが)
宮城県仙台市泉区八乙女(やおとめ)
宮城県石巻市北上町女川(おながわ)
宮城県栗原市一迫女子町(おながわちょう)
宮城県柴田郡大河原町八乙女(やおとめ)
宮城県牡鹿郡女川町(おながわちょう)
秋田県秋田市雄和女米木(めめき)
秋田県男鹿市船川港女川(おんながわ)
山形県山形市早乙女(さおとめ)
福島県白河市女石(おんないし)
福島県南相馬市小高区女場(おなば)
茨城県古河市女沼(おなぬま)
栃木県小山市乙女(おとめ)
栃木県さくら市早乙女(そうとめ)
群馬県前橋市女屋町(おなやまち)
群馬県前橋市粕川町女渕(おなぶち)
群馬県伊勢崎市境女塚(おなづか)
群馬県利根郡みなかみ町奈女沢(なめざわ)
埼玉県戸田市美女木(びじょぎ)
埼玉県三郷市采女(うねめ)
埼玉県日高市女影(おなかげ)
千葉県いすみ市八乙女(やおとめ)
新潟県新潟市中央区女池(めいけ)
新潟県柏崎市女谷(おなだに)
新潟県阿賀野市女堂(おんなどう)
富山県高岡市三女子(さんよし)
富山県魚津市山女(あけび)
富山県中新川郡上市町女川(おながわ)
富山県中新川郡立山町美女平(びじょだいら)
石川県かほく市元女(がんにょ)
石川県白山市女原(おなばら)
石川県羽咋郡志賀町宿女(やどめ)
石川県鳳珠郡穴水町女良川(めらがわ)
福井県坂井市丸岡町女形谷(おおがたに)
福井県坂井市丸岡町玄女(げんにょ)
福井県南条郡南越前町八乙女(やおとめ)
長野県松本市女鳥羽(めとば)
長野県小諸市乙女(おとめ)
静岡県静岡市葵区産女(うぶめ)
静岡県浜松市北区引佐町西久留女木(くるめき)
静岡県牧之原市鬼女新田(じょしんでん)
静岡県牧之原市女神(めかみ)
愛知県名古屋市中川区五女子(ごにょうし)
三重県四日市市釆女町(うねめちょう)
滋賀県甲賀市土山町山女原(あけびはら)
滋賀県東近江市乙女浜町(おとめはまちょう)
京都府京都市北区上賀茂女夫岩町(めおといわちょう)
京都府京都市下京区佐女牛井町(さめがいちょう)
京都府京都市伏見区下鳥羽澱女町(よどめちょう)
京都府舞鶴市女布(にょう)
京都府向日市物集女町(もずめちょう)
京都府八幡市内里女谷(ざとおんなだに)
京都府八幡市八幡女郎花(おみなえし)
京都府京丹後市久美浜町女布(にょう)
岡山県苫田郡鏡野町女原(おなばら)
広島県呉市安浦町女子畑(おなごばた)
広島県安芸高田市高宮町来女木(くるめぎ)
徳島県鳴門市大麻町板東(采女) (うねめ)
徳島県阿南市十八女町(さかりちょう)
香川県高松市女木町(しめぎちょう)
福岡県福岡市西区女原(みょうばる)
福岡県八女市(やめし)
長崎県長崎市女の都(めのと)
長崎県対馬市上県町女連(うなつら)
熊本県葦北郡芦北町女島(めしま)
大分県日田市天瀬町女子畑(おなごはた)
大分県佐伯市女島(めじま)
大分県宇佐市乙女新田、上乙女、下乙女 (おとめ)
鹿児島県西之表市鴨女町(かもめちょう)

<男の付く地名>
北海道天塩郡天塩町男能富(だんのっぷ)
岩手県奥州市江刺区男石おとこいし)
秋田県男鹿市(おじがし)
埼玉県熊谷市男沼(おぬま)
福井県小浜市小浜男山(おとこやま)
静岡県牧之原市男神(おかみ)
滋賀県彦根市男鬼町(おおりちょう)
京都府京都市西京区大原野上里男鹿町(おじかちょう)
京都府八幡市男山(おとこやま)
京都府与謝郡与謝野町男山(おとこやま)
大阪府泉南市男里(おのさと)
兵庫県三木市志染町高男寺(こうなんじ)
和歌山県和歌山市男野芝丁(おのしばちょう)
香川県高松市男木町(おぎちょう)
愛媛県西予市城川町男河内(おんがわち)
熊本県上益城郡山都町男成(おとこなり)
鹿児島県姶良市蒲生町白男(しらお)
鹿児島県薩摩郡さつま町白男川(しらおがわ)

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/07 08:44

茨城の難読地名(その15)-門毛、粗毛・・・

難読地名15

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門毛 【かどけ】 桜川市
粗毛 【ほぼけ】 行方市
奈良毛 【ならげ】 鹿嶋市
粕毛 【かすげ】 土浦市
毛有 【けあり】 取手市

今回は「毛」の付く地名を集めてみました。
「毛(け)」というと頭に浮かぶのはやはり人間や動物の毛、髪の毛などですよね。
こちらは栗毛色、三毛猫など色の表現にも使われます。

でももう一つ「毛=もう」がありますね。
こちらでは「不毛の土地」 「二毛作」などというように食物が育つという意味にも使われますし、そのほかにも数値の単位として分(1/10)→厘(1/100)→毛(1/1000)というような細かな単位を示す場合などにも使われます。

では茨城県の地名に使われている「毛」はどんなところからつけられているのでしょうか。

1) 門毛 【かどけ】 桜川市

この門毛の場所は茨城県と栃木県の2県にまたがる県道257号線の両県の境にある町です。
2つの県にまたがるのですが、両県とも同じ番号の県道となっています。
名前の由来については、常陸国国府(現石岡市)から「毛の国」へ行くときに、毛の国の「門」にあたる場所だということで呼ばれていたようです。

でもこの「毛の国」って何?と思いますよね。

昔、栃木県は「下野国(しもつけのくに)」と呼ばれていました。
しかしこの大昔は「毛の国=毛野(けぬの)国」と呼ばれていたのです。(「けの」は「けぬ」とも言っていた)
それが2つに分かれて「上毛野(かみつけぬの)国」「下毛野(しもつけぬの)国」となりました。
それが国名を2文字にするというお達しがあり、「下野国(しもつけのくに)」「上野国(こうずけのくに)」と名称が変わり、現在の「栃木県」と「群馬県」となったのです。都に近い方が上ですので群馬県が上です。
地名を2文字にせよとのお達し(713年)は女帝の「元明天皇」の時ですが、粟は「阿波」となり、泉は「和泉」などと国名も地域地名も変わったようです。

この「毛」という名前はほとんど消えていますが、今でも「両毛線」(鉄道)などの名前に使われています。

この最初に「毛野」と呼ばれたのは、どうも4世紀くらいの古墳時代の頃からのようです。
5世紀末には「下毛野」「上毛野」「那須」などと分かれ、7世紀末に「下毛野国」「上毛野国(上毛野+那須)」となり、8世紀初めの713年のお達しで「下野国」「上野国」となったようです。

「毛の国」と最初にこの地域が呼ばれるようになった由来は諸説あり
(1)「毛」は食物、穀物の意味で、肥沃な土地であった・または「御食(みけ)」が地名に変化したという説
(2)昔、蝦夷人たちを「毛人」と呼んでいた。この蝦夷人たちの住む地であったので「毛の国」と呼ばれたという説
(3)豊城入彦命などの「紀の国」出身者がこの地を開拓し、移住をしたため「紀の国」の「きの」が転訛したという説
などが言われています。

私個人としては(2)の説に賛同しますね。でもいやだと思う人は(1)の説などを唱えるのでしょう。(3)も史実としては納得しますが「きの」が「けの」に転訛するというのは少し根拠に乏しい気がします。

2) 粗毛 【ほぼけ】 行方市

普通に「粗毛」は「あらげ」「そもう」などと読むと思いますが、この地名「粗毛」は「ほぼけ」と読みます。場所は霞ケ浦の北湖岸に沿った旧麻生町の麻生から少し潮来側に寄った場所にあります。
地名の由来についてはこのあたりの地形から「崩(ほう)ける」の言葉が元になっているといわれています。

近くの「麻生(あそう)」についても「麻が生い茂っていた」という説が強いようですが、こちらも「アゾ」という崖を意味する言葉が元であったのではないかという考え方もあります。

3) 奈良毛 【ならげ】 鹿嶋市

奈良毛(ならげ)は霞ケ浦の「北浦」東岸にあります。平成の大合併前は大野村でした。
この地にも古墳があり「奈良毛古墳群」と呼ばれています。
地名としては、南北朝時代に常陸国鹿島郡に「奈羅毛」と書かれていた記録があり(角川日本地名大辞典)、「奈羅毛津」、「ならけの津」と呼ばれ、港(津)が発達していたと考えられます。

奈良、奈羅の意味合いや由来についてはわかりませんが、ここに古くから人が住んでいたようです。
「奈羅」という字を調べると、「奈羅訳語氏(ならのおさし)」という古代氏族が出てきます。この「奈羅訳語氏」は朝鮮半島からやってきた秦氏の一族だといいます。
「訳語(おさ)」とは通訳のことで、奈羅訳語氏の祖と言われているのは、「己智(こち)」とい人物が百済から日本に渡ってきて、540年に日本に帰化して、奈羅訳語氏となったといいます。

遣隋使などに同行して中国に渡って、通訳などを務めたのでしょうか。
この「奈良毛」もこの一族と関係があるかもしれません。

4) 粕毛 【かすげ】 土浦市

「粕毛」(かすげ)は霞ケ浦へ注ぐ桜川の下流の右岸にあります。現在の上高津にあるイオンモールの少し上流側です。
江戸期から見える村名で、初期のうちは「信太郡(しだぐん)」でしたが、江戸後期の天保年間に「新治郡」に組み入れられました。
昔は「糟毛」と書いていたようです。

「粕毛」「糟毛」というのは「栗毛「黒毛」「鹿毛」などと同じように馬の毛色を表す言葉に使われています。
この粕毛の馬の毛色は「灰色に白い毛の混じったもの」です。

地名の由来は不明ですが、この色合いと関係しているのかもしれません。

5) 毛有 【けあり】 取手市

毛有とは変わった名前ですね。「毛無」というのは結構ある名前で、「毛無山」などがあります。
この「毛有(けあり)」地区は、旧藤代町にあります。
「角川日本地名大辞典(茨城県)」によれば、地名の由来は
「もともとこの地は低湿地地帯で、耕作には適さない地でした。それを江戸時代前期の寛永年間に開発され、穀倉地帯になったそうです。そのことから「不毛」⇒「毛有」となった」ということです。
作物が取れない頃は「毛無原」と呼ばれ、この地を開発したときは「毛無新田」と名付けられたそうですが、不毛の意味になってしまうというので後に、「毛有」に変更されたそうです。

参考までに北海道の駅名に面白い地名がありましたので紹介します。

・大楽毛(おたのしけ)駅・・・アイヌ語の「オタ・ノシケ(砂浜の中央)」に由来、
・増毛(ましけ)駅・・・アイヌ語の「マシュキニ」「マシュケ」(カモメの多いところ)に由来

とされています。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/08 17:33

茨城の難読地名(その16)-乙子、乙戸

難読地名16

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

乙子 【おとご】 守谷市
乙戸 【おっと】 土浦市

乙の付く地名を集めてみました。
上の2件が見つかりましたが、そのほかに阿見町の追原(おっぱら)は昔「乙原」と書いていたようです。

1)乙子【おとご】守谷市

この地名の由来については下記の2つが市の説明などに書かれています。
(1)平将門伝説で、将門がこの守谷の山にに城を築き、万が一の場合に備え、城から抜け穴を掘り、そこから逃げることにしました。その抜け穴の出口を落口(おとしぐち)といいました。それが乙口(おとぐち)に変わり、さらにそれがなまって乙子(おとご)に変化したとする説。
(2)万葉集の歌人の犬養浄人(いぬかいのきよひと)が、末っ子を非常にかわいがり、成人になっても心配なため、近くのこの地に家を建てて生活させたそうです。昔の人は末っ子を乙子とも言ったとのことで、後に当地区を乙子と呼んだとする説。

角川日本地名大辞典(茨城県)には、上の(1)の将門伝説の説明がそのまま地名の由来として載っています。
でもこれは少し納得いかないですね。
(2)の説も少し根拠に乏しい気がします。もう少し探してみましょう。

そこで、全国の乙子と名の付く地名を探してみました。
・島根県益田市乙子町 おとごちょう
・岡山県岡山市東区乙子 おとご

現在の郵便番号簿での地名としてはこれだけですが、いろいろ調べていくと熱田神宮の末社(6社)の中に「乙子社=乙子神社」があり、やはり「おとご」と読みます。
また、この乙子社を本社とする神社が各地にあるのです。
・新潟県新潟市中央区沼垂(ぬったり)東 乙子神社
  ・・・説明では、乙子神社の乙子とは「末子」という意味で、天照皇大神と彌彦神社の祭神・天香山命(あめのかごやまのみこと)の末っ子である建諸隅命(たけもろずみのみこと)を祀っているとあります。
・新潟県燕市国上 乙子神社・草庵
  ・・・ここの社務所に良寛が10年間住んだといわれています。
・岡山県岡山市東区乙子 乙子神社(乙子城山に鎮座)
  ・・・ここも祀られている柱の一つである若御毛沼命(わかみけぬのみこと)<後の神武天皇>が、五瀬命((いつせのみこと)=(安仁神社)の末弟であることから乙子=末っ子から来ていると説明されています。(長兄が五瀬命で末っ子が若御毛沼命)
しかし、地元の地名の説明には、「波風の静かな児島湾を湖に見立て、潮騒が聞こえる湖から音湖といい、乙子の字を当てた 」との説も書かれています。

でもどうやら熱田神宮の末社の「乙子社(おとごしゃ)」が名前の最初のような気がします。
この乙子社は熱田神宮の六末社の最北に建つ神社です。住所は愛知県あま市乙之子(おとのこ)にあります。

祭神は弟彦連(おとひこのむらじ)といい、尾張氏系図に14世孫として載っています。
これからみると「乙子(おとご)」は弟彦連(竟乎己連(おとごむらじ)ともいう)の「おとご」から来ているのではないかと感じます。もちろんこの人物も末っ子なのかもしれませんが・・・。
なお、この「乙子社」は貴船神社との関係が指摘されています。

1)乙戸【おっと】土浦市

土浦市に乙戸沼(おっとぬま)があり、その近くの地名が「乙戸」「乙戸南」となっています。
またこの沼から「乙戸川(おっとがわ)」が流れており、小野川と途中で一緒になり、稲敷(江戸崎)へ流、霞ケ浦に注いでいます。

「乙戸」の名前の由来としては、はっきりしませんが、昔は、沼の中央の形が「乙」の形であったからといわれています。
現在は乙戸沼公園となっており、卸売市場などの施設もあり、残念ながら形状が乙形かどうかはよくわかりません。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/08 22:42

茨城の難読地名(その17)-小浮気

難読地名17

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

小浮気 【こぶけ】 取手市

旧藤代町の藤代駅から西へ少し行った6号バイパスと旧6号国道が合流するあたり「小浮気」という地名があります。
藤代駅近辺からこのあたりにかけては、小貝川が蛇行しており、一帯は湿地帯や沼地だったそうです。
また利根川も近くで2つの大きな川に挟まれた地域です。
過去には何度も水害で苦しめられてきたといいます。

地名の由来は「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、「地名の『ふけ』は、深田とか沼沢地の意」と書かれています。

日本全国で「浮気」という地名を調べてみると、滋賀県守山市に「浮気町(ふけちょう)」という地名があります。

この地名の由来については、『守山市誌 [第3巻]』に、「地名は水澤の池、水がふけるの意味で、野洲川の伏流水が至る所から湧き、泉や小川となって里中を流れ、常に水気が立ちこめる風景を呼ぶ名称です。」とあります。

浮気という字を当てた理由については、『守山往来』のむらのおこりの項目には、「浮気の村は、沼地のようでありました。ちょうど、浮いているような状態で、水面はいつも雲がたなびいているようでした。水が常に上昇して紫気天に浮かびて動かずという状態であったので、浮気の名があるといいます。」とあります。

アイヌ語などを見てみましたが、沼地に対するようなことばに「フケ」などという言葉は見つかりませんでした。
従って、従来からある古アイヌ語(縄文語)ではなく、奈良・平安頃から使われだしたことばなのかもしれません。

まあ本格的な「浮気(うわき)」はいけないけれど、小浮気くらいならいいのでしょうかね。

また、「浮気」と似た地名を探してみると、「浮田」(ウキタ、ウキ)という地名が青森、岩手、福島、京都、大坂、宮崎に見つかりました。
これも 「ふけ」= 布気、婦気、福家、更など が「泥深い田んぼ」も意味したことばとも言われ、「浮気」と「浮田」は同一の意味だとも書かれたものがありました。

「浮田」の地名から「宇喜多」氏の名前が生じたようです。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/09 15:42

茨城の難読地名(その18)-天下野

難読地名18

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

天下野 【けがの】 常陸太田市

「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、当地の獅子舞は徳川光圀に「天下一」と賞されたことから、江戸で「天下一」の標旗を掲げていたが、将軍に天下一の呼称は身分を越えたものとされ、光圀が「天下野村で一番の意である」と弁明したとことにより、天下野と称するようになったと伝える。また当地名は大阪の天下茶屋、美濃の天下原とともに日本の三地名の1つという(水府村史) と書かれている。
また、水府村史によると、元禄12年(1699年)に常陸国久慈郡の下高倉村が改称されて「天下野村(けがのむら)」となったと記されています。
徳川光圀が亡くなったのは1701年ですからその少し前です。

江戸期には「天下野村」「上高倉村」「下高倉村」の三村があり、明治22年に三村が合併して「天下野村」となりましたが、明治29年には再び天下野村と高倉村(旧上と下の両方が一体となった領域)に分離し、昭和31年にまとまって「水府村」になっています。

この天下野村(けがのむら)の領域は常陸太田市でも北部の山間の地域で、常陸大宮市との県境である阿武隈山系の麓の領域です。今では観光で有名になった「竜神橋(大吊橋)」があります。

地名の由来には上に書いた水戸黄門(光圀)の話が紹介されているだけで、それ以上細かな話は残されていません。

天下一と賞されたという獅子舞は地元の説明では「散々楽」(ささら)だといいます。ささら舞は獅子(鹿)の姿をした被り物を被って踊るものが東北地方では知られていますが、茨城県は主に「棒ささら」が多いようです。
三匹のささら(棒に獅子の人形を取り付けたもの)を下から人が操作して踊ります。
ささら舞を「散々楽」と書くのは、水戸の台渡里あたりのささらを呼んでいるようですが、この天下野のささらが今でも行われているのかどうかわかりませんでした。

光圀が地名を変えた話は各地にあり、「板久」を「潮来」(いたこ)に変えた話などが有名です。

ただ、この地を天下野と書くという前には恐らく別な漢字で「けがの」と呼ばれた地域がこのあたりにあったと考えられます。
それを探るために「けがの」という地名を探してみました。

和歌山県橋本市慶賀野(けがの) がありました。

この橋本市の慶賀野という場所は、地図でしらべると大阪から高野山に向かう参拝道である「高野街道(こうやかいどう)」沿いにある町で、大阪府側から和歌山県側に入るときに「紀見峠(標高400m)」を越えて、下った麓にある町です。高野山にはそこから橋本市の街中を通ってまた山に登ります。

地形を見ていると常陸太田市の天下野と少し似ているように思われます。
意味合いはよくわかりませんがこちらの天下野もその昔は「慶賀野」または何か別な漢字で書かれていたのかもしれません。

「毛野、毛ヶ野」または「穢野」なんて漢字で書かれていたのかもしれませんね。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/10 05:53

茨城の難読地名(その19)-先後

難読地名19

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

先後 【まつのち】 小美玉市

この先後の読み方ですが、現在の登録されている住所表記には「まつのち」となっていますが、地元では「まつのち」は言いづらく、昔から「まずのち」と呼ばれています。
通常の会話では、このあたりのことばとしては濁った発音で、「まず」などとよく言いますよね。

また、「角川日本地名大辞典(茨城)」には、地名の読みは「まずのち」となっています。(旧美野里町)
平成の市町村合併前の美野里町の頃は「まずのち」と呼ばれていたようです。
それを濁らない「まつのち」に変えたのには何か理由があるのでしょうか?

地名の由来について、この地名大辞典では、
1) 伏見(京都府)・松崎(千葉県)と当村の3稲荷が京にのぼり位階を受ける時、伏見が最初に受け、そのあと当村の稲荷に勧めたところ、松崎を推し、私は「まずあとにしよう」といったので先後とした。
2) 松崎稲荷の分霊を祀ったので「マツザキ」に対して「マツノチ」とした。
などの伝承がある(美野里町史編集資料) となっています。

まあ伏見稲荷は有名ですので別格として、もう一つの松崎神社ですが、この神社は千葉県香取郡多古町にある坂上田村麻呂が蝦夷征伐に出かけるよりも前の西暦772年創建が伝えられる古い神社で、「坂東稲荷本宮」などとも称していた神社です。

この1)の話は地元の神社などに掲げられた地名由来の話とほぼ同じです。
伏見稲荷と、松崎神社の2社に同列でこちらの神社の位を論じるのは少し不適切に感じます。
このため、上記の説では2)の方が可能性は高いかも知れませんね。
そうすれば「まず」ではなく「松=まつ」というのが正式名称というのはうなづけます。

さて、この場所は小美玉市(旧美野里町)の6号国道が隣の茨城町に入るすぐ手前の低地で、巴川上流左岸にあります。まわりは田んぼが広がっており、先後新田と呼ばれていますが、江戸後期の天保年間までは「前後新田」と記載されています。
また先後稲荷(まつのちいなり)は徳川光圀が、西郷地村(すぐ東となり)の刺賀飛護念(ひがひこね)の社(現石船神社)に合祀されたといわれます。(県神社誌)

全国に「先後」という地名は見つかりませんでしたが、「前後(ぜんご)」という地名はあります。

愛知県豊明市前後(ぜんご)  これは名鉄名古屋線の駅名にも成っていますので、知っている方も多いのではないかと思います。

地名「前後」の由来としては

1) 昔、桶狭間の戦い(1560年)で織田信長が今川義元を破った時、この戦いで亡くなった兵士たちの首を「前後」に並べたところからつけられたとの伝承からついたという説。

2) 「前後村」という名前は、明治になってからつけられた名前で、それまでは「五軒家新田村」と言われていました。その「五軒家新田という名前も、その前をさかのぼると、江戸時代初期には「間米(まごめ)村」といわれ、中心となる「本郷」のほかに、17世紀に「五軒家」、「八ツ屋」、「三ツ谷」という3.つの集落ができました。これらの集落が本郷の南にあるため、「前郷(ぜんごう)」と呼ばれたのが、「前後」に変わったものという説。

3) 桶狭間のなまえの元になっているように、このあたりは狭い谷が迫っているところで、狭い所を意味する「せこ(狭処)」が変化して、「せんこ」になり、それが「ぜんご(前後)」に変わったものとの説。

などの説があります。

小美玉市の「先後」について、地形によりつけられたという話しは見つかりませんでしたが、何かありそうな気もします。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/10 14:20
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