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おいしいね。

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大きなイチゴにかぶりつき・・・・・・

規格外といっても・・・やよいひめ いただきました!

甘くてとても美味しいです。

昨日、「ふるさと”風”」200号(記念号)発行しました。
ページ数は30Pでいつもの1.5倍です。
ついにここまでと言うところです。

次回からは季刊(年に4回)となります。

ホット一息つきました。

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/15 14:47

常世の国(5) 少彦名(すくなびこな)命

常世の国(5)

常世の国に渡った人物(神)として忘れてはいけないのが、少彦名命(日本書紀:すくなびこなのみこと、古事記:少名毘古那神)です。
これは、大国主(大黒様、大己貴命(おおなむちのみこと))が出雲で、この日本国の国造りをしている時代ですから、いつ頃になるのでしょうか? まあ神話ですから良くわかりません。

大国主が出雲の海岸で、国造りをどのように進めていけばよいかを悩んでいると、海から見知らぬ小人がガガイモの舟に乗って近くにやってきます。言葉もわからず汚い身なりの小人です。

この小人が「少彦名(スクナビコナ)」なのですが、書紀などの記述はここでは省きます。
出雲に渡ってきたスクナヒコナは日本語が喋れなかったが、物知りの「山田のかかし」が素性を知らせることになりました。
どこからやってきたかは明らかではありません。言葉が通じませんので、日本から見れば異国からやってきたのでしょう。

この少彦名命は薬の知識を持っていたり、温泉を見つけてその効用を知らせたり・・・様々な知識が豊富で、大国主は少彦名命の力を借りて国造りを進めていく事となりました。

『古事記』上巻の記述では、この国を作り固めた後、少彦名神は常世の国に渡ったとあり、日本書紀では、大国主神が少彦名命と力を合せて国作りの業を終えた後、少彦名命は熊野の岬に行き、そこから“常世郷”に渡ったとあり、、または淡嶋に行き、登った粟の茎に弾かれて常世郷に渡ったと書かれています。
この淡嶋の場所が和歌山県加太の淡嶋神社等、幾つかの説がありますが、粟の茎に弾かれて、空を飛んで常世の国へ行ってしまいます。

空を飛んでいくので、常世の国は海の彼方なのか、天上にある国なのかはわかりません。
少彦名命は薬の神様、温泉の神様としても有名ですが、やってきた時に乗っていたガガイモの舟は天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)といわれ、空を飛びますので、航空関係神様としても祀られています。

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<ガガイモ>

上記の写真は、私が空き地で見つけたガガイモの実だと思うのですが、半分に割れ、中の綿毛のついた種はすでにどこかに飛んでいってしまっ後だとおもいます。
こんな小さな舟に乗ってやってくるのだから小人に違いないですね。
そこから後に「一寸法師」のモデルになったとも言われるようです。

少彦名命が飛んでいった先の常世の国がこの常陸国という考えもありそうに思います。

茨城で少彦名命を祀る有名な神社は酒列磯前神社と大洗磯前神社があります。
那珂川の入口の両側を抑えている大変重要な神社で、共に延喜式の大社となっています。
また、那珂川の中流域に「粟」という地域ががあるが、この那珂川は常陸国風土記では「粟川」とかかれており、この地に鎮座する「阿波山上神社」のご神木に少彦名命が舞い降りてきたとの伝承があり、この阿波山上神社にも祀られています。

常世の国は基本的には不老不死の国であり、理想郷とされていて、そこへは海の波を越えていかねばならず、中国の蓬莱山や天空の城ラピタのような天上界に近い場所にある国などとも考えられます。
また、海の底の竜宮城がその国だというお話も存在します。
有名な浦島太郎の昔ばなしの元となった「浦嶋子」の話しが神話の世界や風土記にも残されていますので、興味のある方はお調べください。
(常世の国シリーズ 完)

「常世の国」を最初から読むには ⇒ こちら

常世の国 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/08 10:16

常世の国(4) 御毛沼命(みけぬのみこと)

 さて、古事記や日本書紀などの古代の記述にある「常世の国」には、ここまで書いた橘を持ち帰った田道間守(タヂマモリ)の他に行ったきりで帰ってこない人物がいます。
そんな人物に焦点を当ててみましょう。
まずは、御毛沼命(古事記:みけぬのみこと、日本書紀は三毛入野命)です。
あまり聞きなれない人物ですが、初代天皇となる神武天皇の兄です。
神武天皇は第4子で、御毛沼命はその上の第3子(または第2子)とされています。
名前の御(ミ)は敬称、毛(ケ)は食物、「沼」は「主」を表わしているといわれています。

常世の国(4)

さて、時代は神武東征のとき(『日本書紀』神武即位前紀)です。
神武東征時には、後の神武天皇となる弟の「神日本磐余彦尊(書紀)」「神倭伊波礼毘古命(古事記)」と共に九州高千穂から大和を目指して進んだとされますが、熊野で暴風雨にあい、母も海神であるのになぜこのように進むのを阻むのかと嘆き、「波頭を踏んで常世国に渡った」と書かれています。
たったこれだけです。

これは、常世の国は理想郷と言うよりは「霊界」的な意味合いを持つ場所と思われます。

ヤマトタケルが走水(神奈川県)から東京湾を富津岬(千葉県)に船で渡るときに、波が荒れ、それを妻の弟橘姫が自ら入水して波を鎮めた話とどこかで繋がっているように感じます。

御毛沼命は神武東征の人柱的な犠牲になったのでしょうか?

もっとも、東京湾で入水したとされる弟橘姫も常陸国風土記の行方郡の「相鹿(あうか)」及び、久慈郡の「遭鹿(あふか)」の地名由来としてここで倭武(ヤマトタケル)は皇后の大橘比命とめぐり会ったとされるので、古代の神話では常世の国へ渡っても死んだとは限らないでしょう。

この御毛沼命も高千穂へ舞い戻り、そこ(高千穂神社)で祀られてもいるのです。

さて、常世の国に行った話ではなく、伊勢神宮の創設に纏わる話の中に「常世の国」が出てきます。
さらっと書かれていてあまり注目はされないみたいですが、少し気になるので下記に書いておきます。

日本書紀 垂仁天皇の即位25年のところです。

(原文)
三月丁亥朔丙申、離天照大神於豊耜入姫命、託于倭姫命。
爰倭姫命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡(筱、此云佐佐)、更還之入近江国、東廻美濃、到伊勢国。
時、天照大神誨倭姫命曰
是神風伊勢国、則常世之浪重浪歸国也、傍国可怜国也。欲居是国。」
故、隨大神教、其祠立於伊勢国。
因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。

(解釈)
ここには、伊勢に天照大神を祀る神宮が移された経緯が書かれています。
年代としては垂仁天皇即位25年の三月です。神話の年号はこの頃は実際より2倍ほど早く進んでいるようですので、今から推察していけば西暦270年前後でしょうか。
天照大神が鎮座する地を求めてあちこち探し回るのですが、天照の係りを前の崇神天皇の娘である「豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)」から垂仁天皇の娘の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に替えます。まだ倭姫命は幼い子どのように思われますが、霊的能力が高かったようです。倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に至り、そして引き返して近江国から、東の美濃を巡って、伊勢国にやって来ました。そこで天照大神が倭姫命に言うのです。

「この神風の伊勢国は、常世の国から繰り返し浪が打寄せてはまた帰る国です。また、大和の国の側でももある「可怜国(ウマシクニ:すばらしい国)です。この国にいたいと思う」

そこで大神の教えに従って、ここ伊勢国に祠(ヤシロ)を建てたのです。
斎宮(イワイノミヤ)を五十鈴川の川上に立て、それは磯宮(イソノミヤ)といい、天照大神が初めて天より降りた場所です。

ここで、常世の国が伊勢国そのものを指すとも解釈できますが、垂仁天皇90年に田道間守(タジマモリ)が「非時香実=橘」を探しに常世の国へ遣わされますので、伊勢国には常世の国から波が打ち寄せ、帰ると解釈するべきでしょう。

「常世の国」を最初から読むには ⇒ こちら


常世の国 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/07 10:37

常世の国(3)万葉集と橘

常世の国(3)

 常陸国風土記に橘(たちばな)の記載されたところとして行方郡があると書きましたが、もう1箇所香島郡にも書かれている箇所がありました。
香島郡という表記は常陸国風土記のみで使われ、他では「鹿島郡」と一般には表記されています。
653年に行方郡が成立しましたが、香島郡はその4年前の649年に海上国と那珂郡の地域を一部割いて成立しました。
この時に最初に置かれた香島郡の郡衙は、鹿島神宮の北の沼尾神社付近にあったと推察されています。
「この地にある池には鮒・鯉が多くいて、この池の蓮は美味しくて食べると病が治るといわれている」とあり、また
「この地には以前郡衙が置かれていて、橘(たちばな)がたくさんうえられており、その果実は美味である」と記されています。

このように常陸国は行方郡と香島郡の郡衙近くに「橘」の樹がたくさんあったことがうかがえます。
ただ、奈良朝の始め頃には香島郡(鹿島郡)の郡衙は丁度この池(沼尾)とは神宮をはさんだ反対の東南側に移されています。

さて、663年に白村江の戦いで倭国は百済と一緒に唐・新羅連合軍と戦い敗れてしまいます。
その後、九州にこれらの外敵から倭国を守るために防衛軍として防人(さきもり)が派遣されます。
奈良朝になると、東国からも多くの防人が派遣され、常陸国からも一度に200~300人程度の人を徴集して九州に送られました。

この人たちは鹿島神宮で武運を祈り、そこから出立したために「鹿島立ち」などと言う言葉も生まれました。

また、これらの防人は難波に着くと、大伴家持の要請で歌を詠みました。
この行方郡の橘を詠った歌があります。

橘の 下吹く風の かぐはしき 筑波の山を 恋ひずあらめかも
(万葉集:7371番)

作者は占部廣方(うらべのひろかた)の歌で、「天平勝寳七歳(西暦755年)2月、相替(あいかわ)りて筑紫に遣わされる諸國の防人(さきもり)たちの歌」と題が書かれています。
 天平勝宝7年(西暦755年)2月9日に、常陸國の防人を引率する役人である防人部領使(さきもりことりづかい)として息長真人國嶋(おきながのまひとのくにしま)が進上したとされる17首の歌の一つだとされます。

万葉歌碑1
(占部廣方の歌碑:羽生の公民館脇)

占部廣方の役職は「助丁(すけのよぼろ)」で、防人の長「国造丁(くにのみやつこよぼろ)」を補佐する役職でした。

この歌の原文を見てみましょう。

多知波奈乃 之多布久可是乃 可具波志伎 都久波能夜麻乎 古比須安良米可毛

となっており、橘の読み(万葉仮名)は「多知波奈」です。

 これをどう読むかですが、タチバナ、タチハナとどちらも有りでしょう。ただ、「茨城」は倭名類聚抄では「牟波良岐」となっており、ムバラキ(またはウバラキ)と読むと考えられます。
古代(万葉の頃)の発音は、今とは違う発音も多くなされていたようで、「波」も「BA:バ]ではなく「PA:パ」または「FA:ファ」といった発音であったとの解釈もありますので、それが何時、どのように「タチバナ」と変って行ったのかは不明です。
では平安時代の辞書である「和名抄」の地名からの変化を見て行きましょう。

1) 倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう) 略称:和名抄 (わみょうしょう)
承平 年間( 931年 - 938年 )に源順 (みなもとのしたごう)が編纂。
平安時代の辞書といわれる。ここに当時の国名、郡名、郷名が載っている。

常陸国は東海道の国に分類され、五畿内と隣りあう伊賀国から始まって最後が常陸国となる。
常陸国には
郡名:新治(爾比波里)、眞壁(萬加倍)、筑波(豆久波)、河内(甲知)、信太(志多)、茨城(牟波良岐)、行方(奈女加多)、鹿島(加未之)、那珂、久慈、多珂 とある。

また茨城郡には
夷針、山前、城上、島田、佐賀、大幡、生國、茨城、田舎、小見、拝師、石間、安食、白川、安候、大津、立花、田籠
とあり、「立花」と漢字で書かれています。
これは郡・郷の名前は二文字とするようにお達しが出ていたため、「橘」 ⇒ 「立花」となったものと考えられます。

2) 地名大辞典
地名の大辞典は過去の博士などの有名なものもあるが、一般向けにまとめられた次の2つの大辞典が有名である。
・角川書店:角川日本地名大辞典 8茨城県 S58.12.8発行
・平凡社:日本歴史地名体系 8 茨城県の地名 1982年11月4日 発行

この2社の内容はそれぞれに特徴があり、古代、中世の地名などについては角川書店が詳しいが、元禄郷帳(1702年)、天保郷帳(1834年)、1882年地方行政区画便覧、1889年市町村制施行、1953年町村合併促進法などでの変化を見るには平凡社が秀でている。
また、旧小字名一覧などは角川書店版にほぼ網羅されている。

橘・立花についての角川書店版の内容をここに少し紹介しよう。

古代:立花郷(たちばなごう)
 平安期に見える郷名。「和名抄」常陸国茨城郡十八郷の一つ。「新編常陸」によれば、羽生に橘明神という社があるといい(現在の橘郷造神社か?)、当郷を江戸期の「羽生・沖須・八十蒔・谷島・浜・捻木・倉数・与沢・山野・幡谷・外ノ内新田・花園新田等ノ十二村」にあてている。

中世:橘郷(たちばなごう)
 平安末期~室町期に見える郷名。常陸国南郡のうち。「和名抄」の立花郷にほぼあたる。鹿島社領。・・・・・とある。
この地は鎌倉時代を中心に鹿島神宮の領地として寄進された地域である。

近世
・立花村(明治22年~昭和29年):羽生・八木蒔・沖洲・浜の4ヶ村が合併・・・現行方市
・橘村(明治22年~昭和29年):与沢・山野・幡谷・川戸・外之内・倉数の6ヶ村が合併・・・現小美玉市

上記の「立花も橘も共に古代からの郷名から名付けられており、ともに「タチバナ」という。
現在は2つの自治体に分かれてしまっているが、ともに古代の「タチバナ」であり、恐らく橘の樹が多く生えていたことと思われます。
古代の理想郷の「常世の国」の「時じくの香くの木の実」はこの地にあったという考え方も成り立つのではないでしょうか?
古墳時代に垂仁天皇は、常世の国へ行っての「時じくの香くの木の実」を取ってくるように命じました。
当時どのような人々がこの地に棲んでいたのかは良くわかりません。
しかし、三昧塚古墳や沖洲古墳群が点在するこの地「橘郷・立花郷」から霞ヶ浦周辺は食べ物も豊富で、水もあり、霊峰筑波山が姿をくっきりと浮かべ、日が沈むときには筑波山は真っ赤に萌えます。

そして、歌垣で男女が集い、恋の花を咲かせていたことも想像に難くないでしょう。

「常世の国」シリーズを最初から読むには ⇒ こちら


常世の国 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/06 09:10

常世の国(2)-非常香果(ときじくのかぐのこのみ)

この「まほらにふく風に乗って」というブログのタイトルは
「まほら=真秀ら」(真によい処)=常世の国
ということにもなる。
そして、このブログのスタートは2010年8月だから、今から12年以上前となる。

今回、「常世の国=古代の理想郷」をどのように見るかを考えているのだが、まず、古事記や日本書紀に記載のある「常世の国」との表現がある箇所をピックアップしていきたいと思う。

常世の国(2)

第2回目は「非常香果=日本書紀」「登岐士玖能 迦玖能木實(時じくの香の木の実)=古事記」について紹介しよう。
まずは古事記の内容を見ていこう。

1)古事記(和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたとされる)
古事記には橘の実について非時香果(ときじくのみ:いつでも香り高い果実)であり、常世の実であるという記述があります。

中巻 (11代)垂仁天皇の条

<原文>
・又天皇 以三宅連等之祖 名多遲麻毛理遣常世國 令求登岐士玖能 迦玖能木實。
・故 多遲摩毛理 遂到其國 採其木實 以 縵八縵。矛八矛 將來之間 天皇既 崩
・爾多遲摩毛理 分 縵四縵 矛四矛 獻于大后 以 縵四縵 矛四矛 獻置天皇之 御陵戸而。
・擎其木實 叫哭以白 常世國之 登岐士玖能 迦玖能木實 持參上侍 遂叫哭死也
・其登岐士玖能 迦玖能木實者 是今橘者也。

<読み下し>
・また天皇、三宅の連(むらじ)等の祖先の名前をタヂマモリ(田道間守)という者を常世の国に遣わして、時じくの香(か)ぐの木の実を求めしめたまひき
・依ってタヂマモリ、遂にその國に到りて、その木の實を採りて、縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)を、將(もち)來(つる)間に、天皇既に 崩(かむあがり)ましき
・ここにタヂマモリ、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を分けて、大后に獻り、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を、天皇の御陵の戸に獻り置きて、
・その木の實を擎(ささげ)て、叫び哭(おらび)て白(さく)、「「常世の國の 時じくの香(か)くの木(こ)の實(み)を 持ちまゐ上りて侍(さもら)ふ」とまをして 遂に哭(おら)び死にき。
・その時じくの香(か)くの木の實は今の橘なり。

<話の概要>
11代垂仁(すいにん)天皇の在位90年の所に、天皇は三宅の連(むらじ)の祖先である多遲麻毛理(タヂマモリ)という人に、海の彼方にあるという理想郷の国=常世の国に行って、何時までも香りのよい実をつける(不老不死の果物)「時じくの香(か)ぐの木の実」という果物を取ってきてほしいと命令したのです。
タヂマモリは海の彼方にある常世の国を目指して大海原に船を漕ぎ出し、荒波を越え、やっとの思いで常世の国に到着しました。
そこにあった「時じくの香(か)ぐの木の実」の実を八つ、実を連ねた木の枝を八本持って、また必死の思いで海を渡り天皇のいる国へ戻って来ました。
しかし、国に戻ってきたときには、すでに天皇は崩御されていたのです。嘆き悲しんだタヂマモリは持って帰って来た「「時じくの香(か)ぐの木の実」の半分(四縵、四矛)を天皇の大妃に差し上げ、残りの半分を天皇の御陵に持って行き、その場で持って帰ったことを報告し、悲しみ、泣き叫んで死んで(自害?)しまいました。
その「時じくの香(か)ぐの木の実」というのが、現在の橘(たちばな)のことです。

(解説)
 この垂仁天皇は『日本書紀』での名は活目入彦(いくめいりびこ)五十狭茅天皇です。兄は東国に派遣された豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。豊城入彦命が東国の統一に進攻している間、活目入彦が天皇の位を継いで、まず畿内周辺の四街道へ四道将軍を派遣し、周りを固めます。そして余命も少なくなって、この不老不死の木の実を欲したのでしょう。しかし、在位99年(年令は古事記153歳、日本書紀140歳)で崩御してしまい、木の実を持ち帰ったのは、出かけてから10年経っていたのです。
神話(古事記、日本書紀)に書かれた年代をそのまま信じるの無理ですので、この話の年代は三世紀後半から四世紀始めの頃と考えられます。
垂仁天皇の後が 景行天皇で、景行天皇の子がヤマトタケル(日本武尊)となります。

一方持ち帰ったという「時じくの香(か)くの木の實」は「縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)」という表現がされていますが、この畳み掛けるような数の表現は謎賭けのような要素を持ち、八は末広がりで縁起が良く沢山と言う意味も持っているようです。八百万(やよろず)などの表現にもその事が表われています。
縵(かげ)は実を表わし、矛(ほこ)は実が串刺しとなって連なった枝を意味します。
ただ、矛(ほこ)も茅(ち)と通じ、茅の輪のようにこれをくぐって疫病などの災害を防ぐなどの意味ともつなっがているのかもしれません。

さて、この橘の木は、常陸国風土記にも出てきます。場所は行方郡のところです。
「郡の側(かたはら)の居邑(むら)に、橘樹(たちばな)生(お)へり。」と書かれています。
行方郡は茨城郡と那珂郡の地域から653年に分割して成立しました。
(行方)郡衙が何処にあったかは不明ですが、現在の玉造の少し東側にあったと推察されます。

少し長くなりましたのでこの続きは次回へ




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常世の国 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/05 10:52
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