FC2ブログ

三村の地名(二)- 長見寺の愛宕神社

 石岡市の三村の名前について前回書きましたが、この三村城跡のあった三村小学校のある高台の西側にやはり少し高くなった小山がある。

三村小学校も統廃合の対象になってしまったとも聞いたが、この小学校区の地区名(小字名)は、「大塚,大原,正月平,新生,城構内,長見寿(寺),吹上,諸士久保,古道,羽成子,坂井戸,御前山,水内,八幡,今泉,後久保」の16地区がある。

それぞれの地名にとても興味を引かれるものが多く、三村城にかかわる遺稿としての名前が多く残されているようだ。
また、地域も上郷・下郷の内郷とその周りの外郷に別れ、上郷・下郷の総鎮守はこの地方では有名な「須賀神社」(上宮)であり、その他の外郷(羽成子、坂井戸、御前山、大塚、正月平)は羽成子の「鹿島神社」(下宮)のようだ。

上郷地区を見てみると旧三村城のあった高台の回りに「城構内」「今泉」「後久保」「新生」が取り囲んでおり、西に少し離れて「長見寿(寺)」がある。

三村周辺神社

もともと三村という地名は室町時代ころから呼ばれていたようだが、江戸時代初期の寛文2年(1662年)に三村から新治村が分かれてできた。この新治村は古代の新治郡(旧協和町古郡に郡衙)とは別なものであり、本当に混同してしまう。

江戸末期に高浜地方出身の国文学者である鬼沢大海(おおみ)氏の書かれた「常陸旧地考」では倭名類聚抄」に記載の新治郡は三村の事だと考えていたようである。
まあ旧協和町の郡衙跡の発掘などが行われたのは昭和になってからであり、当時分らなくても当然だと思う。

このなかで、「長見寿(寺)」とあるのは城跡より少し西に離れた小山(台地)であり、先日近くを通ってので少し散策してみた。
三村城よりの小山の先端部に、上まで続く階段があった。

P3170101s.jpg

こういうのがあると、すぐに上りたくなるが、結構下の土がもろく、木で作られた階段とはなっていたが一部手を使ってつかまりながら登った。 年寄りには昇り難い。

P3170102s.jpg

階段上り口の木の根元には月山など出羽三山講の古びた石碑があった。

P3170103s.jpg

小山の上には大きな古木と小さな祠が置かれていた。
かかれたものは何も無い。
地図にも何も書かれていないが、手元にある資料などで調べてみるとこの長見寿地区の鎮守で「愛宕神社」であるらしい。

ここも古墳だったのか? それとも中世の砦があった場所なのだろうか。

P3170106s.jpg

ここから恋瀬川の向こうに舟塚山古墳の地域や高浜の町方向がよく見渡せた。

この「長見寿」地名は、国土地理院の地図では「長見寺」とある。
昔寺が在ったものと思うが、今はその名残は発見できなかった。

ところで以前三村城跡近くの「普門寺」を訪れた時に、何故この場所に小田氏の寺とよく言われる普門寺があるのか不思議だったが、今回三村を調べていて、この寺は三村から新治村が分かれた寛文2年(1662年)に西野寺(胎安神社のある地域)から移された事が判明した。

少し暇になったらこの地域を少し探ってみたい。
城構内:弁天社、今泉:不動明王、後久保:息栖明神、諸士久保:薬師堂、吹上:大日如来、古道:岩屋不動・・・・
それに須賀神社(上宮)と鹿島神社(下宮)・・・・何か埋もれていそうにも思う。

   参考文献:小野寺淳 「村落の社会組織に及ぼす相給支配の影響」 1991年 筑波大人文地理学研究 XV


高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/27 10:34

三村の地名

 私が最近疑問に思っていた地名に地元石岡市の「三村」がある。

地元なのだから何か知っているのではないかとの問い合わせも受けた事がある。

その理由は戦国時代に備中(岡山県)で名をはせた武将の「三村氏」が、その氏族の出は常陸国の筑波郡三村郷だということにある。
しかし、現在この筑波郡地域には「三村」という地名は残されておらず、石岡の三村ではないかと尋ねて来るのだ。

また常陸国筑波郡の隣りが新治郡で、この新治郡が古代から検地や行政区分時にかなり広い範囲で変遷しており、この現在石岡市の三村も昔は新治郡にあり、近くに新治(にいはり)地名があり、新治小学校もあるから複雑だ。

戦国時代の武家を調査しているサイトでも、この三村氏を新治郡の三村だとしているものも多い。

ただ、平安時代の辞書ともいえる「倭名類聚抄(和名抄)」には、筑波郡の中に9つの郷名(大貫、筑波、水守、三村、栗原、諸蒲、清水、佐野、方穂)があり、その中に「三村郷」が記載されており、新治郡には三村という郷名はない。

倭名01

そこで思い付いたのが、つくば市北条近くの現在登山(ハイキング)で賑わっている「宝篋山(ほうきょうさん)」が昔は三村山と呼ばれていた事だ。
近くを通っていて突然ひらめいた。 ああここの事なのだと・・・

鎌倉時代初期に鎌倉御家人で関東守護をしていた「小田氏(八田知家)」の招きで、この地にやって来た「忍性」が大きな「極楽寺」という寺をこの山の麓に建てた。
極楽寺は別名「三村寺」とも呼ばれていて、正式名称は「三村山清冷院極楽寺」という。
そして坂東における律宗布教の拠点としてここに寺を建てたと考えられている。

しかし、その後忍性は鎌倉に拠点を移したこともあり、次第にこの寺は衰退し、現在大きな五輪塔などが残されているだけで、寺の伽藍などはすべて消えうせ、宝篋山登山の一ルートとして「極楽寺コース」なあり、多くの登山客が訪れるが、三村という地名にあまり気をつける人はいないようだ。

P9050086s_20200324110434c2c.jpg
(宝篋山の麓少し登った所に残された極楽寺の大きな五輪搭)

恐らく、この山の麓から小田にかけては昔「三村郷」と呼ばれていたに違いない。

備中三村氏はこの筑波郡三村郷の出身と見てよいと思う。
常陸国は平国香からの平氏が進出して開拓を進めていきましたが、一方源氏は奥州征伐でやって来た八幡太郎義家の弟の新羅三郎家光(源家光)の影響が大きい。

後三年の役の後、常陸介として常陸国にやって来た源家光(いえみつ)が武田郷(ひたちなか市)に住み、その後、子の源義清(武田冠者)と共に甲斐国に移って、子孫が甲斐武田氏に成るが、源家光の長男は常陸国を制した佐竹氏となっている。

一方調べてみると、備中三村氏もこの家光の子孫の「信濃小笠原氏」から出ている。
この小笠原氏も甲斐国巨摩郡(山梨県)にある地名から来ており、備中三村氏は、この小笠原氏からわかれているとされる。

少し複雑だが、常陸国から追放された源家光(新羅三郎)が移り住んだのは甲斐国(山梨県)で、源義清(武田冠者)の孫が甲斐国巨麻郡加賀美郷に住して「加賀美 遠光(かがみ とおみつ)」となり、その次男が甲斐国巨摩郡の小笠原荘に住して「小笠原氏」となった。
その小笠原氏の子孫が戦国時代に常陸国筑波郡三村に住して三村氏と名乗るようになったのではないか。

当時この三村の近くは小田氏が勢力をはっていたので、三村氏はこの小田氏と関係が深かったのかもしれない。
しかし、すぐ近くには多気大掾もいたが、鎌倉初期に滅ぼされてしまい当時は小田氏の支配地域であったろう。

地元石岡の三村は明治以降の町村合併などで出来た地名ではない。
一般に3つの村(邑)が一緒になって「三村」という名になるのは解るが、三村の名はもっと昔からあって、石岡市と合併するまでは新治郡の三村であったようだ。

石岡市史によると、その昔の室町時代に「上郷(上ノ宮地区)」、下郷(下ノ宮地区)」、「中郷谷(二子塚・江後田地区)」が合して三村という村が現れたと書かれている。

この新治郡にあった三村から筑波山の麓に士族が移ったという記録は残念ながら発見できなかった。

戦国時代末期には常陸国府(府中)を支配していた大掾氏がこの三村の地に小田氏と対峙する出城(三村城)を築いて、そこに弟の「平常春(つねはる)」を配した。

しかし、これも小田に攻め滅ぼされて落城した(1573年)。
このとき城の外で自害したとされる平常春の五輪塔が椿の木の下にひっそりと眠っています。

私が前に書いた話を収録した

茨城の民話Webアーカイブ ⇒ 三村城秘話

などもご参考まで

P1010006s_202003242038161f6.jpg
(平常春の墓といわれるの五輪搭)



高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/24 13:24

鎌倉街道と呼ばれる道(2/2)

かすみがうら市の鎌倉街道と呼ばれている道を少し探っています。
昨日からの記事の続きです。

かすみがうら市の石岡に近い東野寺、西野寺には2つの対となる神社があり、それぞれ子安神社、胎安(たやす)神社とどちらも子育て、安産祈願などで知られている。
また神紋はどちらも源氏の紋である笹竜胆(リンドウ)が使われている。
この紋がいつ頃から使われだしたかは知らないが、佐竹氏が秋田へ転封となり、替りに秋田からかすみがうら市の志筑地方に進出してきた本堂氏が源氏の氏族を名乗り、この神社などの保護に尽力したことによるのかもしれない。

しかし、それより前の11世紀前半にやってきた八幡太郎などの伝説が多く残されているのも気になるところだ。
子安神社に伝わる話は、川に橋を架けたというもので昨日紹介した。

胎安神社に伝わる話は、神社HPによると
「天喜2年(1055年) 鎮守府将軍陸奥守・源頼義、義家父子が、奥州征討の時、隣村の下雫村(下志筑)在陣中に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の懐胎を遥想されて、神主を招き、安産祈願を執り行いました。
康平6年(1064年) 大任遂行の帰路、当社と子安神社に奉賽(ほうさい)すなわち、お礼参りをされました。この時の「太刀一振り」の奉納札が残っています。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。 
尚、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されました。」
となっています。

1055年となっていますが、他の歴史書では1051年もあります。
さて、この東野寺、西野寺という地名ですが、もともと室町~鎌倉時代頃は、このあたりは「野寺(郷)」と呼ばれていたようです。
そのため、野寺と呼ばれるような寺が大昔からあって、神仏分離などで、寺が廃れて神社が残ったのかもしれません。

また、胎安神社の創建を見ると創建は、奈良時代の763年とされ、初めは、下総国香取神宮の神(経津主命ふつぬしのみこと)を祀り、相殿(あいどの)に、山城国葛野郡(京都嵐山)梅宮大社の御分霊として、胎内安全の神(木花咲耶姫命・このはなさくやひめのみこと)を祀ったと書かれています。

また一方の子安神社は鹿島神宮の神を祀っています。

鎌倉初期頃には志筑には下河辺氏(後の益戸氏)がおり、南北朝時代などは、大掾氏がここを攻撃したなどの記録もあります。
この野寺地区もその頃は益戸氏が支配していましたが、その後大掾氏が志筑城を攻略して、この野寺には部下の野寺孫三郎の居館が今の西野寺の古館にあったとされています。

それでは、この2つの神社から土浦方面に行ってみましょう。
すぐ近くを流れる天の川には立派な橋がかかっていますが、この橋は10年ほど前に何年もかかって建て替えられた物もので、道路もまっすぐきれいになりました。

橋をわたってこの自動車道の左側の住宅にはさまれた所に旧道らしい細い道が残っています。
ここもいつ頃からあるかはわかりませんが、少なくとも昔をしのぶにはよい道です。
比較的大きな家々の間を抜けて、広い新しい道に合流する辺りに新しい道路を挟んで土浦方面を見て右手の少し高台に2つの鳥居があります。

P3170083s.jpg

左右の鳥居の形が違いますね。
右がここではメインで「愛宕神社」と地図には在りますが、左の神社名はかかれていません。

P3170073s.jpg

鳥居をくぐった先には左に比較的小さな社があります。

P3170075s.jpg

手前にはキツネと思われる像が置かれていますので、稲荷神社のようです。

P3170077s.jpg

社の内部を覗いてみました。
「創立明治元年 胡桃下稲荷神社」などと書かれた札が貼られていました。

日本三大稲荷の一つともされる笠間稲荷の別名がこの「胡桃下(くるみした)稲荷神社」ですので、明治元年にこの地に分霊して持ってきたのかもしれません。
今ではこの神社の周りはこの地の名物である梨園が多くありますので、昔はこの辺りにも胡桃の木が茂っていたのかもしれません。(笠間稲荷の場所にはクルミの木がたくさん生えていたそうです)

さて右側の火防の神様といわれる愛宕神社ですが、小山になっていますのでこの山は古墳であったのかもしれません。
コンクリートの上り階段の先に拝殿と思われる建物があります。
しかし、この建屋の内部には神棚も何もなく、ガランとした空家小屋でした。

P3170082s.jpg

その裏手に神社の本殿がありました。

P3170080s.jpg

また近くの木の根元には「山ノ神」などと彫られた石板が置かれていました。

P3170078s.jpg

神社から降りて、通りに出ると、通りの反対側の小山にも昇る階段があります。

P3170090s.jpg

地図では「二子塚古墳」となっています。ただ別な地図ではこの二子塚古墳の場所はもう少し石岡よりです。
でもここが古墳のことは間違いないようです。
(後で調べると、愛宕神社のある小山が愛宕古墳1号墳、こちらが3号墳というようです)

P3170086s.jpg

階段を上った古墳の上には大きな古木と小さな社(やしろ)がありました。
説明がかかれた物はありません。

P3170087s.jpg

頂上からの眺めはよい場所でした。

P3170088s.jpg

二子塚古墳と名付けられた古墳は全国にたくさん在り、石岡柿岡の丸山古墳群の中にもあります。
しかし、このかすみがうら市の古墳については余り紹介されている記事が在りません。
しかし、名前からの連想か? この古墳にも八幡太郎伝説が在りました。
「八幡太郎義家の妻がこの地で双子を出産し、内一人がなくなり埋葬した」という他愛のない伝説です。

しかし、古東海道の官道はかなり広い幅であったようですので、この愛宕神社の西側高台を走っていたものかもしれません。
ただ官の道は一般通行人が歩く事ができなかったのかもしれません。
一般の旅人が歩くのはもっとくねくねした細い道だったのでしょう。

さて、鎌倉街道といわれた道は江後田へ通じていたとされていますので、江後田へ行ってみました。
現在の広い道路をそのまま土浦のほうに進むとコスモ石油GSとスーパーカスミなどのお店がある信号に出ます。
そこを左折します。

少し行くと、「笄(こうがい)崎」というバス停があります。

P3170092s.jpg

笄(こうがい)というのは昔、女性が髪に差していた櫛のことです。
各地にこの笄崎という地名は存在し、そのほとんどで、ヤマトタケルの妻「弟橘姫」が横須賀の走水(はしりみず)から千葉県の富津岬に船でわたるときに、海が荒れて、それを沈めるために海にわが身を捧げたとされている神話により、このときの姫の笄が流れ着いた場所であるという伝承が多く残されています。
このかすみがうら市の笄崎もこの地から「菱木川」という川が旧出島村の先端の霞ヶ浦まで流れており、東京湾から霞ヶ浦(旧香取海、流れ海)を通ってこの地にまで笄が流されてきたという伝承があったのかも知れません。

ではこの笄崎から左に入る細い道を江後田(えごた)地区に行ってみましょう。

P3170093s.jpg

入り口は狭いですが、入るとのどかな道が続いています。
しかし、しばらく行くと道は下に下がって田んぼの間をぬうような道になります。

P3170094s.jpg

その田んぼの中にポツンと社と鳥居がたっています。

P3170095s.jpg

地図では「厳島神社」となっています。
やはりここも昔は大きな池になっていたのでしょう。
その池の中の島のような所に、この厳島神社が建てられたものと考えられます。

いまでも地図を見ると、この辺りから高浜あたりにかけて何箇所も池や沼などの場所が在るようです。

「江後田(えごた)」という地名も、昔川などがあり、その近くに田を耕作してつけられた名前だと地形を見て想像できました。
東京西部池袋線の江古田(えごた(ちめい)、えこだ(駅名))も同じように付けられた名前だと思います。

この江後田には中世の戦国時代に鈴木源太左衛門が築いた「江後田屋敷」があったと記録されています。
ここから左に又昇っていくと前の広い道路に出ます。

この笄崎から先の昔の道はいろいろな説が在りそうです。

大昔はきっと菱木川を舟で下り、霞ヶ浦(流れ海)にでて、美浦村の方につながっていたのでしょう。
しかし、奈良時代になって作られた古東海道はここから真鍋の方に続いていたのかもしれません。

昨日の記事で教えていただいた土浦の「小松=駒津」であれば、ここに馬を止める湊があったのでしょう。
そこから先は信太郡衙といわれている下君山あたりから対岸の荒海(駅家)辺りに渡っていたのかもしれません。

この辺りはまた後に発掘調査で官道の遺稿の一部でも見つかるといいのですが、見つかるのを楽しみに待ちましょう。
それまでこの記事もお蔵入りですね。




古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/22 05:58

鎌倉街道と呼ばれる道(1/2)

 かすみがうら市の北東部の東野寺と西野寺の間を通る街道は、昔から鎌倉街道と呼ばれていたといわれています。
日本各地に鎌倉時代に鎌倉を目指す街道に「鎌倉街道」と名付けた通りがたくさん残されています。

その中で、この石岡が常陸國の国府であった頃に国府と奈良などを結ぶ街道があったはずですが、あまりよく解説されている資料などは見かけません。

石岡に国府がおかれたのはいつ頃からでしょうか?
奈良時代始めに国分寺や国分尼寺が建てられ、またその北側に東北蝦夷への武器製造工場として「鹿の子遺跡」の建物群が建てられたのです。

ただもう少し前の飛鳥時代ころに石岡には茨城廃寺がありました。
人の出入りもあったはずです。
遠く奈良地方(畿内)からこの石岡の地には、どのルートを通ってやってきていたのでしょうか?

奈良時代になって道は整備し始められ、幅の広い道が作られたといわれています。
しかし、それが完成したかどうかも良くわからないのですが、一般の人の大来にはあまり利用されずに、各国府から中央政権への官道としてしか利用されなくなってしまい、その道が消えてしまったのではないかと考えられています。

常陸国は東海道に属する国の一番東端の国です。このとき整備していたであろう官道は「古東海道」と呼ばれていました。
10世紀に編纂された延喜式には古東海道(中路)には30里(当時の1里は約550m、30里≒16.km)、毎に設けられた駅家(うまや)の名前が書かれており、常陸国府(石岡)の手前は「曾弥」という名前でした。

ここがどこなのかについてははっきりしませんが土浦市の下高津あたりではないかと言われています。
そうすると、この下高津あたりから、当時まだ湿地や池などが多かったと思われる現在の土浦中心部は通っていないと思われますので、どこを通っていたのでしょうか?

また、奈良時代前や、初期のころは霞ケ浦を渡って国府に来ていたと思われる記録がたくさん残されています。
私は、現在の美浦村あたりから舟に乗りかすみがうら市の旧出島地区へわたり、陸路または川を遡ってこの石岡後にやってきていたと考えています。


現在鎌倉街道と呼ばれる道がどのような場所なのかを少し調べてみたいと思い立ちました。

鎌倉街道

地図に予想されるルートを記入してみました。

東野寺(子安神社)、西野寺(胎安神社:たやすじんじゃ)には八幡太郎にまつわる伝承が残されています。
前九年の役(蝦夷征伐)に源頼義と長男の八幡太郎こと源義家が戦いに参戦したときに通過したときの伝説です。

石岡の三村地区にある「正月平」という地名は、この源氏の親子がここで正月を迎え、わずかしかいなかった住民にたいそうなもてなしを受けたそうです。
戦い終わって都に戻ってから感謝の印として「黄金のはたし」が贈られたと当時の書物に書かれてあると、石岡市史などにも記されているがこれがどんなものであったかについては何も記されていません。

しかし、正月平を訪れて調べていると、昔黄金の機織り機が村に保管されていたそうで、それを歩崎にある古刹の「歩崎観音」に奉納したとされていたのです。

一方歩崎観音は、本尊として十一面観音を安置していますが、この観音は33年に1度のみの公開となっていたために、一生に1度くらいしか拝むこともできなかったのです。
また、ここには「黄金の機織り機」が残されており、これも33年に1度のみの公開でした。

さらにこの機織り機には「龍女伝説」が一緒に語られていたのです。

龍女は、お腹の子供の安産を歩崎観音に願掛けをし、「無事生まれた時には黄金の機織り機を奉納する」と約束します。
その後、龍女に無事子供が生まれたために、この黄金の機織り機を奉納したというのです。

この話はともかくとして、実際に小型の黄金で作られた機織り機が戦争中頃まで残されていたそうです。
しかし、現在は残されておらず、東京へ展示のために貸し出して、戻ってこなかったそうです。
東京大空襲などで焼けてしまったのでしょうか?

寺は無住となっていた時期も長く、詳細はわかりません。
ただ、この観音様は現在は毎年この地域で行われる夏のおまつり(あゆみ祭り)時に公開されています。

また、鎌倉街道と言われる横にある子安神社の話では、この正月平に滞在している時(正月)に、この神社の祭礼があり、この神社にお参りに訪れたそうです。
その時近くを流れる天の川にかかるちゃんとした橋がなく、住民が渡るのに苦労していたそうです。
そのため、八幡太郎は部下たちを使って橋を架けさせたといわれています。

八幡太郎伝説はいろいろありますが、この正月平の話と子安神社の話は少し信ぴょう性が高いように思っています。

八幡太郎の父「源頼義」は988年の生まれとされており、陸奥守として奥州赴任した1051年(前九年の役の始まり)は、60歳を過ぎていました。

しかし、記録としてはこの常陸国にやってきたときに現在のつくば市北条の多気山に城を構えていた常陸大掾であった「多気致幹」の娘との間に子供をもうけています。

このような事実を積み重ねて当時の様子を想像するしかないのですが・・・・・
なかなかわからないことが多いですね。

明日に続きます。
最後まで長々とお読みいただきありがとうございました。

古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/21 09:03

山桜が満開

 ここのところ朝晩寒い日が続きましたが、今日は比較的暖かいようです。
コロナでかなり世界中で大騒ぎですが、もう少し冷静に対処するようにしたいものです。

心がイライラしていると体もどこで悲鳴をあげそうです。

昨日は茨城県でもコロナ感染者が出ましたね。
ひたちなか市といっても勝田辺りですね。

比較的行動範囲は狭そうですし、本人は心配して用心していたようですのでこれから広がらないことを祈ります。

昨日ロンドンにいる娘から電話がありました。
向こうは結構大変な事になっているみたいです。
トイレットペーパがなくなるし、食料品も結構なくなっているようです。
また値上がりもしていそうです。

学校は休みではないようですが、逆に企業の休みや自宅勤務が多くなっているとか。

一斉に自宅勤務となるとネット回線スピードが極端に遅くなり、ネットビデオ会議などができないなど、
一斉にこのようなことが起こるとは想像していないのですから仕方ないですね。

そんなことで、町をぶらぶらしていて見つけたサクラです。

P3170100s.jpg

P3170099s.jpg

ヤマザクラって、こんなに早く咲くのもあるのですね。
眺めていると少し気分も和らぎます。

街中風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/18 10:42
« Prev | HOME | Next »