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公民館での2回目の講座開催

 「常陸国における源平合戦」と題して4回連続での講習会をしていますが、今週木曜日に2回目の講座を城南地区公民館で行いました。
1回目に比べると少し落ち着いて周りを見ることもできたかと思いますが、まだまだですね。
大変多くの方(約30名)が熱心に聞いていただきありがとうございました。

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平日の昼間ですので、やはり年配の方が中心ですね。男女比率は半々くらいでしょうか?
しかし、八郷地区や石岡市内からの方もおり、この地区公民館の周辺地区ばかりではないことに驚いています。

この三村地区には前から少し興味があり、昔は結構歩いたりしたのですが、最近はご無沙汰ばかりでした。
今回も地元の昔話も話の中に加えたのですが、三村城の主、常春公(府中の大掾氏の弟)がここで小田氏の攻撃により最期を遂げた時のお話をしました。
この常春公の五輪塔を探して何度か足を延ばして見つけた時の喜びは今も忘れられないのですが、今回地元の方より、この椿の木の下にあった五輪塔が、「今は常春寺に移されましたよ」とお教えいただきました。
常春寺へは先月訪れたのですが、五輪塔が移されていたことは気が付きませんでした。
こんな会話も楽しいものですね。

地元の地名「羽成子(はなし)」が岩間の「葉梨山神社」とどのように関係するかそのうちに見えてくるかもしれません。

この場所から舟で小川に向かいには絶好の地です。(これはわかる方にしかわからない??)

鎌倉期の霞ケ浦の地形を思い浮かべると、小川の園部川河口付近は大きな入り江になっています。

Flood Maps 地図の紹介もしましたので、興味のおありになる方は使い始めているかもしれませんね。

次来週木曜日、また何か新たな知識が増えるといいですね。





近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/11/11 09:55

権現山古墳(東海村)

 日立市をさらに南へ戻って、東海村へやってきました。
ここには十三参りで有名な村松虚空蔵があります。

しかし、風土記が書かれたころはまだこの虚空蔵尊はなく、後に筑波山から見て鬼門(北東=丑虎)方向に建てられたものだと理解していますので、今回は風土記の頃を考えて、風土記の遺称地として名前が挙がっている「権現山古墳」を探していってきました。
このあたりにはほかにも古墳が残されていますが、これらは「那賀国造一族の墓」ではないかと考えられています。

常陸国風土記では、那賀国のところではなく、行方郡の成立の説明箇所の出てきます。

「孝徳天皇の時代(645~654年)の653年に、茨城の国造である小乙下壬生連麿と、那珂の国造の大建壬生直夫子たちが、請い願って、行方郡を設置した」となっています。

この大建壬生直夫子(だいけんみぶのあたいおのこ)は建借間命(たけかしまのみこと)の子孫と思われます。
小乙下(せいいつげ)、大建(だいけん)というのは664年制定の冠位26階中の24位と25位だという。
ただ、行方郡を作った時は653年で、この冠位の制定は664年であり、年代としては合わないが、すでに653年前には同じ名前の冠位が存在していたものと思われます。

この権現山古墳は東海村村松943あたりで、古墳の上に「素鵞神社」が祀られています。
県道284号線沿いにあり、すぐ隣に「日本原子力研究開発機構の権現山寮」が建っています。

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この神社があるところが権現山古墳(前方後円墳)で、右側が日本原研の権現山寮。

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素鵞神社と掲げられていますが、昔から素鵞神社なのか明治以降に変わったのかは不明。

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この神社と裏手の山全体が古墳のようです。

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築造は五世紀中葉だという。

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古墳の説明版の隣に「ヤマザクラ」の古木の案内が書かれています。

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素鵞神社鳥居から上に上ると、小さな社がポツンとありました。
どうやらこれが素鵞神社の社のようです。

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またこの左手側にヤマザクラの古木があり、根を保護するために周りにロープが張られていました。



常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/11/09 11:18

密筑の里と泉が森(久慈郡)

 多珂郡から日立市南部は「久慈郡」となる。
現在、日立市の泉神社と呼ばれる比較的有名なパワースポットがある。

ここが常陸国風土記の久慈郡に書かれている「密筑(みつき)の里」と呼ばれる場所だとされている。

風土記には

「称ふ所の高市、此より東北二里(約1km)に密筑(みつき)の里あり。村の中に浄き泉あり、俗(くにひと)、大井(おほゐ)と謂ふ。夏は冷にして、冬は温し。湧き流れて川と成る。・・・・・・・」

と書かれており、この泉の場所に村人たちが集って、酒や肴を持ち寄って楽しんだという。

現在、日立市水木町に延喜式式内社の「泉神社」が建っており、この湧き水の池を含めた神社境内など一帯を「泉が森」という名称で昭和44年に県指定の史跡として登録されている。

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ナビを頼りに神社に到着。 この少し先に神社の駐車場が置かれていた。
鳥居の左手には聖徳太子堂と書かれた石柱が建っていた。

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入り口の鳥居から泉神社拝殿まで並木道沿いに青い旗がたくさん並べられていて雰囲気のよい神社である。

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泉が森の説明

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ここで行われている「水木のささら」祭りの説明。
石岡のお祭りのささらとはまた少し違うようで興味深い。

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泉神社の拝殿。西日が差して少しまぶしい。

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拝殿には龍の彫り物や徳川の葵のご紋がついていた。

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拝殿の浦は本殿でその奥は森であるが、そちらへは行けない。

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この拝殿と本殿の中間くらいの左手に「目洗の泉」と書かれた泉がありました。

さて、風土記に書かれた密筑の里の大井という井戸は、この泉神社拝殿に向かって、手前の右手側の下にありました。

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神社からは少し下がった場所にあります。

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泉の中央に赤い社が置かれています。これは弁天様だといいます。
まあ泉にはやはり弁天さんですよね。

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この社の左手の泉は下から絶えず湧き水が噴出しているようで、もくもく、ぽこぽこと音は聞こえませんが、かなり勢い良く噴き出していました。

やはりここは何かご利益がありそうですね。




常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/11/08 15:59

仏の浜(2)

 昨日書いた「仏の浜」については、現在どうも風土記の遺称地とは違うのではないかという意見が多くなっているようです。

理由としては、
① 常陸国風土記に書かれている流れからすると、「藻島の駅家」と「飽田の村」との間にあると読めそうで、これらの遺称地がそれぞれ、日立市十王町伊師北部と、日立市相田町と考えられており、この度志観音のある日立市田尻町は相田町より少しばかり南であり、位置が違っている。
② この度志観音の彫られた時代が室町時代初期ごろではないかとみられ、奈良時代の風土記制作時期より後ではないかと考えられる。
③ この岸壁の位置が当時の海辺ではなく、少し内陸部ではないかとみられる。

などが言われています。

そのため、もう少し北の海岸に近い場所として、日立市小木津町の東連津川河口付近の岸壁に摩崖仏の像があるというので探しに行ってみました。

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小木津町の北側の東連津川近くの海岸付近まで行ってみました。
しかし、ここには海岸に降りられるような場所がなく、コンクリートの津波除けの塀が張り巡らされており、人が降りられる場所も密漁防止の看板とともに塞がれていました。

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浜辺には入れませんでしたが、東連津川の河口付近を塀の上から眺めてみました。
このように波打ち際まで岸壁が連なっていますが、摩崖仏らしきものはわかりません。

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ただ、この波打ち際に摩崖仏が1300年前にあったとしてもこの波と風ではとても今に残されているはずもないでしょう。

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ただネットには摩崖仏の写真があるので、もう少し内陸側の壁面に残されているのかもしれません。
まあ、なかなかここを訪れるのも少ないでしょうから、どこかでまた情報を得ながら探してみたいと思います。



常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/11/07 08:05

仏の浜(1)-度志観音跡

 常陸国風土記の多珂郡の記述はそれほど多くはない。

多珂郡が大化の改新以降に律令制制度での国や郡を明確に区分するようになる前は、まだ多珂国とよばれており、国造(くにのみやつこ)が派遣されていた。

都から4世紀中頃に、ここの国造に派遣されたのは建御狭日命(たけみさひのみこと)で出雲臣と同族の人であったという。
また、この頃の多珂国は今の日立市助河の北から福島県の大熊町あたりまでと記載されている。

この多珂国の南部の入口あたりを「道前」と呼び、最後北部の出口付近を「道後」と呼び、読み方も「みちのくち」「みちのしり」などといった。

その後、大化の改新直後の孝徳天皇の時代(645-654)に、この国(多珂国)を管理するには広すぎるとして、南北2つに分割して「多珂国」「石城国」となり西暦700年前頃に、常陸国多珂郡、陸奥国石城郡となった。

そして、この常陸国風土記にはこの「道前の里」で倭武の天皇(ヤマトタケル)が妻の橘皇后(弟橘姫)に会い、海幸彦・山幸彦の伝承を彷彿させるように、ヤマトタケルは山で狩りを、弟橘姫は海で漁をして獲物獲得競争をしたとなっている。

結果は姫の完勝で、山の幸はほとんどとれず、海の幸は大漁で(食べ)飽きるほどだったという。
このため海沿いの地名に「飽田の村」と名付けたと書かれており、ここは今の地名で「日立市相田町附近:小木津駅の東側海岸沿い)とみなされています。

風土記にこのような話を載せたのは恐らく何か理由があったはずですが、考えてみるととても意味深な話でもあります。
それぞれそれを想像してみるのも面白いでしょう。

さて、今回は、常陸国風土記に、この「飽田村」の近くの大海のほとりの岩壁に仏像が彫られた場所「仏の浜」があるとの記載があります。

全国の風土記でも仏像の記述は他になく、この常陸国風土記のこの箇所のみだといいます。
この仏の浜と言われる場所の候補地が2か所あります。

1つ目は日立市田尻町の田尻小学校南側の崖に残されている「度志(どし)観音跡」でここが県の指定史跡「仏ヶ浜」として登録されています。


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この田尻小学校の南側の崖を目指していくと、その近辺の通りの道は結構広く整備されており、開けた感じの場所となっていました。
地図を見てみると、通りに沿ってコンビニ(ミニストップ)があり、その反対側にセレモニーホールがありました。
その駐車場のわきから少し内側に回り込むと「佛ケの浜」の案内板がありました。
どうやらこの通り沿いの駐車場のすぐ裏手の崖部分に「史跡・度志観音跡」があるようです。
(木々が生い茂っていて表通りから見えなくなっています)

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その案内ポールのところから、前の広い道路に平行に木々の間に道が続いています。
そしてその少し上った先が開けていて説明看板が置かれていました。

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このように、常陸国風土記の「佛ケ浜」はこの度志(どし)観音の場所に違いないと、昭和30年に茨城県教育委員会に認定されて、県の史跡として登録されました。

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奥の岸壁中央に扉の付いた場所があり、ここが1300年以上前に風土記に書かれた仏像だと考えられたようです。
格子の中をのぞきましたが、壁面に何か彫られた跡があるようでしたが、その姿は肉眼ではよくわかりませんでした。

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又向かって左側の壁面には地蔵像などいくつかの仏像が置かれていました。

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壁面にも何か摩崖仏が彫られているのかもしれませんが、はっきりしません。

ここの歴史を見てみると、かつて常陸三十三観音霊場の第15番札所であった真言宗「清滝山源勝院観泉寺」があり、この観音像を本尊としていたそうです。
また、この寺は弘仁年中(810~824年)に空海が建立したという伝承があると書かれています。
ただ、この観泉寺も廃寺となっていて、よく歴史はわかりません。
風土記が書かれたという西暦720年頃にすでにあったのかはわかっていません。

今では次に書く「仏の浜(2)」の説の方の場所が可能性は高かそうです。

ただ、このあたりの岸壁に摩崖仏が彫られたというのは歴史的にはとても興味深い話で、多珂国は7世紀末頃は陸奥国での蝦夷に不穏な動きが頻発していたらしく、このあたりに観世音菩薩などの仏像を岸壁に彫り、蝦夷の動きを鎮めたいという願いをこのような仏像に込めたと考えられています。

<仏の浜(2)へつづく>





常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/11/06 09:05
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