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芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (2)

(解説)
 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。
しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀上野から桃印という甥と三人で暮らしていたのですが、寿貞と桃印が駆け落ちしてしまったのです。当時これは密通罪という大罪であり、二人に死罪もあるため、怪しまれることを恐れた芭蕉(桃青)は延宝八年(1680年)日本橋と云う繁華街から深川に移ったと云われています。

芭蕉庵02
芭蕉庵と臨川庵


さて、芭蕉が深川で暮らした「芭蕉庵」ですが、現在の墨田川と小名木川の合流地点のすぐ近くです。
上記の地図に示した「芭蕉稲荷神社」に芭蕉庵跡の碑が置かれています。また、すぐ近くの川を眺められるテラス公園(芭蕉庵史跡展望公園)に芭蕉の像が置かれています。芭蕉に関するいろいろな資料などは隅田川沿いのすぐ北側の「芭蕉記念館」にあります。

しかし日本橋から深川に移ったため、門下の人々の多くが来なくなり、かなり失意の気持ちが強かったと思われます。そんな時に知り合ったのが仏頂和尚です。
この仏頂和尚ですが、芭蕉庵から500m程の距離にあった「臨川庵」(現:臨川寺)にいました。
この臨川庵は、承応2年(1653)に鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだのが始まりとされます。
鹿島の根本寺住職は1674年に冷山和尚から仏頂和尚に引き継がれましたが、根本寺の寺領50石を鹿島神宮に取られそうになり、1675年頃から仏頂和尚は寺社奉行に訴えるために江戸臨川庵に逗留していました。この訴訟争いは7年ほどかかり勝訴がほぼ決まったのは天和2年(1682)だといいます。
またこの臨川庵は仏頂和尚が幕府に願い出て、正徳3年(1713)瑞甕山臨川寺という山号寺号が許可され現在に至っています。
芭蕉はこの仏頂和尚から禅の心を会得し、精神的にもだいぶ変化があったようです。
そして仏頂和尚から鹿島の山の月見に誘われて、貞享四年(1687)8月15日の前の日に名月を見ようと曾良と宗波の2人の門下と鹿島詣に出掛けたのです。
さて、行きは小名木川から新川に入り行徳まで舟で進み、そこから布佐までは当時の木下(きおろし)街道を徒歩で進みました。
この小名木川と新川を通る舟の道は江戸時代の大きな舟運の大動脈でした。

少し歴史を見て見ましょう。
天正18年(1590)、江戸に入った徳川家康はまず行徳の塩田に目をつけました。この塩を江戸に安全に運ぶために、行徳を天領とし中川と隅田川を繋ぐ人工的な運河(水路)・小名木川を造り、また、文禄3年(1594)には利根川東遷事業という大工事を開始し、河川の改造をすすめています。
一方この小名木川は中川までつながりましたが、中川から行徳までは古川という自然の川を当初は使っていたのですが、東側がかなり蛇行して通行に支障をきたしていたために江戸幕府成立後の寛永6年(1629)に水路を直線化する工事が行われ、今の新川が出来ました。そして当初は行徳の塩の輸送が主な目的だったのですが、寛永9年(1632)には貨客船「行徳丸」が就航し、利根川を経由した船路が整備され、東北地方や関東地方と江戸を結ぶ水運が発達し、荷物の運搬や人の輸送にこの小名木川・新川のルートが水運の大動脈になったのです。

当時の様子を調べて見ましょう。
深川万年橋
富嶽三十六景 深川万年橋下 葛飾北斎(1760~1849)

芭蕉庵のすぐ近くの小名木川に架かかる萬年橋ですが、寛永年間(1624~ 1644)に木造の橋が最初に架けられたといいます。芭蕉が深川の芭蕉庵に住んでいた頃(1680~1694)から北斎の描いた時代までは100年以上離れていますので、芭蕉が歩いたと思われる萬年橋の姿とは少し違うかもしれません。
舟で荷物を運ぶためにアーチ形の橋になったと思われますが、最初はもう少し低い橋だったのかもしれません。徐々に船も大きくなり、橋下の高さも高くしたのかもしれません。
また橋が出来た当初はこの橋の近く(芭蕉庵近く)に江戸に運ばれてくる船荷などを見張るために、川船番所が置かれていました。しかし、船運の増加、江戸の町の拡大にともない、寛文元年(1661)6月に小名木川と(旧)中川との合流点に中川船番所が出来、番所の役目はそちらに移りました。したがって、芭蕉が住んでいた頃には中川船番所に移っていました。

中川合流01

現在は荒川放水路が出来、この中川と小名木川、新川の合流点の様子はわかりにくくなっていますが、上地図の赤丸が「中川船番所」があった場所で、現在再現され当時の資料なども展示されています。
また新川の破線で書いた水路が放水路で大きく削り取られています。
旧中川はこの上流側の東から蛇行して流れてきていましたが、荒川放水路で分断され、この場所では川の東側が中川(新)で西側が荒川です。この下流で中川は荒川に合流します。

中川口
歌川広重『名所江戸百景 』中川口

江戸百景の中川口は手前が小名木川で左側に船番所があった。向う奥が新川でその間が中川(旧)。

芭蕉たちは小名木川・新川と舟で進み、旧江戸川に入り、少し北上した「行徳」で船を降ります。
行徳からは馬にも乗らず徒歩で甲斐の国からある人が送ってくれた檜でつくった笠を三人がそれぞれかぶって、八幡(千葉県市川市八幡)という里を過ぎ、釜ケ谷(かまがい:現鎌ケ谷)の広い原を通って布佐まで行ったとありますので、これは木下(きおろし)街道を通ったと思われます。
木下街道は江戸と下利根方面を繋ぐ物流の最短ルートとして整備され、行徳、八幡、鎌ヶ谷、白井、大森、木下の6か所に宿場が設けられていました。
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木下(きおろし)街道 (行徳 ~ 木下)

この鹿島紀行では釜ケ谷(鎌ヶ谷)の広い原に野馬が放牧されていた様子が筑波山の景色と共に表現されています。また、木下街道という名前は当時あまり使われておらず、いろいろな呼び名で呼ばれていたようです。木下(きおろし)も利根川の水運で近隣の木材を川に下したことから名づけられたとも云われています。銚子などでとれた魚を江戸に運ぶ道としても利用されましたが、布佐と松戸を繋ぐ鮮魚街道(なま街道)が発達し、松戸から川を下って行徳まで運ぶ方が時間も短いのでそちらが生魚の輸送に使われ江戸の人口増加に貢献したのです。

この布佐~松戸の「なま街道」については昔記事にしたことが有ります。 ⇒ こちら(なま(鮮魚)街道)(2011年1月)

さて、芭蕉たちは布佐で漁師(鮭漁)の家で休んで、翌朝船で鹿島に向かう予定?でしたが、魚の臭いが生臭く寝ていられないので、月の明りがあるのを頼りに夜船で鹿島を目指しました。
布佐はこの木下の利根川すぐ上流にあります。利根川がこの付近が一番狭くなっており、海から川を昇る魚がいったんここに留まるため、魚を捕獲する網代場が設けられていました。
鮭漁は現在利根川では行われていませんが、赤松宗旦の『利根川図誌』(安政2年(1855))によると、
「利根川にてレン魚(さけ)を漁するは、毎年七月下旬より十月下旬までなり。利根川のレン魚(さけ)は布川(ふがわ)を以て最(さい)とす。これを布川鮭といふ。魚肥え脂つき、肉紅(くれない)にして臙脂(えんし)の如く、味亦冠たり。これを漁するは大網(おおあみ)、待網(まちあみ)、打切(うちきり)、歩掛(かじがけ)、無相(むそう)、流し、イクリ、バカッピキ、これ等は網なり。又ヤスにてつきてとるをヤスツキといふ。」と書かれており、利根川でも布佐と対岸の布川間で鮭漁(網代)がおこなわれていたようです。

                   (続く)

鹿島紀行を巡る最初から読むには ⇒ こちらから


鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/01 06:58

芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (1)

芭蕉の鹿島紀行を巡る

(はじめに)
 松尾芭蕉は貞享四年(1687)八月の中秋の名月の日に、二人の門人と共に鹿島地方を月見に訪れました。
これは江戸深川の芭蕉庵にいた時に知り合った仏頂和尚からの誘いを受けたものでした。
仏頂和尚は当時鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職をしており、鹿島神宮との間で寺領争いがあり寺社奉行に訴えるために、江戸深川の臨川院という草庵にいました。
仏頂和尚は、根本寺の寺領訴訟に天和2年(1682)勝利し、鹿島に戻り、根本寺を弟子に譲り、芭蕉が訪れた時は、荒廃していた山の草庵を立て直し暮らしていたようです。

 芭蕉は1680年に日本橋から深川の芭蕉庵に移っていますが、この芭蕉庵から臨川院(現臨川寺)まで小名木川の萬年橋を渡って500m程の距離であり、芭蕉は仏頂和尚に俳句を、仏頂は禅を教えるというようにかなり親密に過ごしたようです。
年は仏頂和尚が二~三歳年上です。

この仏頂和尚の月見の誘いを受けて、鹿島の山の月見をしようと二人の門人を連れて1887年の中秋の名月に鹿島を訪れました。
その時に書かれ、残されたのが「鹿島紀行(鹿島詣)」です。
今回はその原文と、現代語訳、および書かれた当時の時代背景なども含めて内容を検証してみたいと思います。

芭蕉旅立ち
(芭蕉旅立ち:蕪村)

数回に分けて載せます。

第1回目は「原文」と「現代語訳」に挑戦です。

<原文> 

鹿島紀行(鹿島詣)         松尾芭蕉

 らくの貞室、須磨のうらの月、見にゆきて、「松陰や月は三五や中納言」といひけむ。
狂夫のむかしもなつかしきまゝに、このあき、かしまの山の月見んとおもひたつ事あり。

 ともなふ人ふたり。浪客の士ひとり。すなわち河合曾良なり。
ひとりは流れる水、行く雲をさすらう水雲の僧。すなわち宗波なり。
僧は、からすのごとくなる墨のころもに、三衣の袋をえりにうちかけ、釈迦の修業を終えて出山の姿をうつした尊像をづしにあがめ入テうしろに背負、拄丈ひきならして、無門の関もさはるものなく、あめつちに独歩していでぬ。

 いまひとりは、わたくしこと芭蕉である。
僧にもあらず、俗にもあらず。鳥鼠の間に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく、門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。

 ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。甲斐のくによりある人の得させたる、檜もてつくれる笠を、おの/\いたゞきよそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり。
それはまるで秦甸(しんでん)の一千里とかや。めもはるかにみわたさるゝ。

 つくば山むかふに高く、男体、女体の二峯ならびたてり。
これを見て思い出されるのは、かのもろこしに、「双劔のみねあり」ときこえしは廬山の一隅也。

  ゆきは不レ申(まうさず)先(まづ)むらさきのつくばかな

と筑波山を詠めしは、我門人嵐雪が句也。
すべてこの山は、やまとたけるの尊の言葉をつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。
和歌なくば、あるべからず。句なくば、すぐべからず。まことに、愛すべき山のすがたなりけらし。
 萩は錦を地にしけらんやうにて、かつてためなかゞ長櫃に折入て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花、みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。

 日既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。
此川にて、鮭の網代といふものをたくみて、武江の市にひさぐもの有。
よひのほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。
月くまなくはれけるまゝに、夜舟さしくだして、かしまにいたる。

 かしまに至れば、ひるより、あめしきりにふりて、月見るべくもあらず。
ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。
すこぶる人をして深省を發せしむ、と吟じけむ。しばらく、清浄の心をうるにゝたり。

 しばし居寐たるに、あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。
月のひかり、雨の音、たヾあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。
はる/”\と月みにきたるものを、句も詠まれぬかひなきこそ、ほゐなきわざなれ。
かの何がしの女すら、郭公の歌得よまでかへりわづらひしも、我ためには、よき荷憺(かたん)の人ならむかし。

をり/\にかはらぬ空の月かげも
     ちヾのながめは雲のまに/\  和尚
月はやし梢は雨を持ながら    桃青
寺に寝てまこと顔なる月見哉   同
雨に寝て竹起かへるつきみかな  曾良
月さびし堂の軒端(のきば)の雨しづく   宗波

   神前
此松の実ばえせし代や神の秋   桃青
ぬぐはヾや石のおましの苔の露  宗波
膝折ルやかしこまり鳴鹿の聲   曾良

   田家
かりかけし田づらのつるや里の秋  桃青
夜田(よた)かりに我やとはれん里の月   宗波
賎(しず)の子やいねすりかけて月をみる  桃青
いもの葉や月待里の焼ばたけ    桃青

   野
もゝひきや一花摺の萩ごろも  ソラ
はなの秋草に喰あく野馬哉   仝
萩原や一よはやどせ山のいぬ  桃青

帰路自準の家に宿ス
塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ  主人
あきをこめたるくねの指杉   客
月見んと汐引のぼる船とめて  曾良

貞亨丁卯仲秋末五日
              (終わり)


<現代語訳>
洛(京都)の貞室(安原貞室:俳諧師)が須磨の浦の月を見にゆきて、「松陰や月は三五(十五夜)や中納言(須磨に流された中納言行平も、同じ月を見たのだろう)」と詠んでいる。
狂夫(風流に狂った者:貞室)の昔もなつかしさがつのり、この秋、鹿島の山の月を見ようと思い立った。

一緒に旅をするのは二人。浪客の士が一人。すなわち河合曾良である。
もう一人は流れる水、行く雲をさすらう水雲の僧。すなわち宗波である。
この僧は、カラスのような真っ黒い墨の衣に、三衣(さんえ:大衣・七条・五条)の袈裟の袋をえりにうちかけ、釈迦が修業を終えて山を出るときの姿をうつした尊像を厨子に崇めて後ろに背負い、拄丈(しゅじょう:錫杖)をひきならして、無門の関(悟りを開いた中国宋の無門慧開(えかい)禅師の「大道門無く、千差路有り。この関を透り得ば、乾坤を独歩せむによる」のように物事に頓着せず、天地に独歩して進む。

 いま一人は、私こと芭蕉である。
僧にもあらず、俗にもあらず。鳥鼠(ちょうそ)の間に名をかうぶり(蝙蝠)の、鳥なき島(鹿島)にも渡ろうと、門から舟に乗って、行徳というところに至る。

 舟から上がれば、馬にものらず、細脛の力(弱い脚力)をためそうと、徒歩で行く。
甲斐の国からある人が送ってくれた檜でつくった笠を、三人それぞれかぶって、八幡(千葉県市川市八幡)という里を過ぎると、釜ケ谷(かまがい:現鎌ケ谷)の原という所に、広い野があった。
まさに「秦甸(しんでん:秦の首都周辺)の一千里」とも言うべきか。はるかに見渡される。
筑波山が向こうに高く、男体山・女体山の二つの峯が並び立っている。
例の、中国に双剣の峯があると聞いているのは、廬山(ろざん:中国江西省にある山、仏教の霊場)の一隅である。

 ゆきは不レ申(まうさず)先(まづ)むらさきのつくばかな
(雪が降りかかっている姿は言うまでも無いが、紫峰といわれる筑波山の姿はまた素晴らしい。)

と詠んだのは、わが門人服部嵐雪の句だ。
いったいこの山は、ヤマトタケルノミコトが最初にお供の老人と連歌したという言葉を伝えて、連歌する人の起源とし(酒折宮での火焚老人の:「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜 日には十日を」の話)、連歌のことを「筑波の道」とも言うのだ。
せっかく筑波山にきて歌を詠まないのはもったいない。句を作らないで通り過ぎるものではない。実に愛すべき山の姿であるなあ。

 筑波山では萩は錦を地に広げたように咲いて、かつて橘為仲が陸奥守から都へ戻る時、宮城野萩を長櫃(ながびつ)に土産として持ち帰ったように、風流なことである。桔梗・女郎花・かるかや・尾花などが乱れあい、牡鹿が妻を慕ってあちこちで鳴くのも、大変趣がある。野の馬が放牧されて、所知ったる顔で群れ歩いているのも、また趣がある。

日がすでに暮れかかるころに、利根川のほとりの布佐という所についた。
この川で鮭をとるために網代を仕掛けて、江戸の市で商売をしている者あり、宵の間にその漁師の家で休んだ。
夜になり、その宿が魚の臭いが生臭く(寝ていられないので)、外の月あかりがくまなく晴れわたっているのにまかせて、夜舟を出発させて川を下り鹿島に至った。

鹿島に着くと、昼から雨がしきりに降って、月を見ることもできない。
山のふもとに、根本寺の前の和尚(仏頂上和尚)が今は世を逃れてこの寺にいらっしゃると聞いて、訪ねていって泊まった。
杜甫が(『古文真宝』にて)「人をして深省を発せしむ」と詠んでいるが、しばらく清らかな心を得た気持ちになった。

しばらく寝て、夜明けの空が少し晴れてきたころ、(仏頂)和尚が人々を起こすと人々は起きてきた。
月の光、雨の音、ただ趣深い景色ばかりが胸に満ちて、句を詠む題材もない。
はるばると月を見にきたのに句が詠めないということは不本意なことだ。
しかし、かの何がしの女(清少納言)だって、ほととぎすの声を聞いたものの、ついに歌を詠まないで帰ってしまったというから、(清少納言)は私にとって心強い味方といえるかもしれない。

   (仏頂和尚の寺にて)
をり/\にかはらぬ空の月かげも
     ちヾのながめは雲のまに/\  和尚(仏頂)
月はやし梢は雨を持ながら    桃青(芭蕉)
寺に寝てまこと顔なる月見哉   同(芭蕉)
雨に寝て竹起かへるつきみかな  曾良
月さびし堂の軒端(のきば)の雨しづく   宗波

   神前(鹿島神宮にて)
此松の実ばえせし代や神の秋   桃青(芭蕉)
ぬぐはヾや石のおましの苔の露  宗波
膝折ルやかしこまり鳴鹿の聲   曾良

   田家(田舎の家にて)
かりかけし田づらのつるや里の秋  桃青(芭蕉)
夜田(よた)かりに我やとはれん里の月   宗波
賎(しず)の子やいねすりかけて月をみる  桃青(芭蕉)
いもの葉や月待里の焼ばたけ    桃青(芭蕉)

   野(まわりの野にて)
もゝひきや一花摺(はなずり)の萩ごろも  ソラ(曾良)
はなの秋草に喰あく野馬哉   仝(曾良)
萩原や一よはやどせ山のいぬ  桃青(芭蕉)

帰路自準の家に宿ス(自準亭:潮来の本間道悦亭)
塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ  主人(自準:道悦)
あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ)   客(芭蕉)
月見んと汐引のぼる船とめて  曾良
(貞享四年(1687)八月二十五日)
              (終わり)


鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/31 07:53

昨日は寒くて今日は暖か

桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・

菜の花01s

 かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。
四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。
毎年のことだけどやはり春を感じますね。

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部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。
やっと満開になりました。

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事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・
でも可愛いのでしばらく踏みつけないようにしておきます。


近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/27 10:44

明法房(弁円)の寺と墓(3)

 常陸大宮市東野(とうの)にある真宗大谷派の法専寺で教えて頂いた元山伏弁円こ「明法房」が葬られたとされる墓所へ。

頂いた地図で、元の通り側に戻って法専寺の裏山の向こう側に車で向かいました。
地図もあるし大丈夫と思っていたのですが、入口の曲道を通り越して、大回りしてまたもとへ帰って来て見つかりました。

通りからの曲がり道に何か案内でもあればいいのですが、何もなかったので見過ごしてしまいました。
分って見れば何でもないのですが、こんなことが結構あります。
法専寺から元の通りの方に戻って、右へ廻って寺の裏側の山の向こう側の裾を巻くような道でした。
距離的にも右折してから600~700mくらいですし、曲がった先も比較的狭いですが確り舗装された道です。

その道を行くと暫くして左側に公園風の小屋根のある休憩所のような場所が見えてきます。
ここが明法房の墓所です。そこは市が「玉川自然公園」として整備していて、奥に駐車場があります。

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駐車場のある場所から「明法房墓所」と案内があり、右に池があり、左に梅林がある歩道を進みます。

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そして、その先に公園のお休みどころのようなベンチなどが整備され、右の山側に墓所の案内板が置かれています。

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墓所と云うより「塚」と表現されています。
このあたりに山伏弁円が修行していた「法徳院」(佐竹秀義が建てたとされる祈祷所)があったようです。

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明法房は四十九歳の時に、この地に戻り、一宇を建て、これが現在の法専寺となり、七十二歳で往生し、この楢原の地に葬られ、楢原塚と呼ばれ今もこうして大切に守られているようです。
法専寺は現在二十九世だそうです。

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楢原塚への道の両側にはシャクナゲの花が植えられていました。5月~6月頃になったらきれいに花が咲くのでしょう。

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明法房墓所の塚

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やはり、一度やってきてこの目で見て見ないとだめですね。
私の場合はその地に行ってみて初めて、そこで今までの歴史的な流れが感じられるものだと思う気持が強くあります。
今回も特にその感が強くしました。

弁円が平清盛の孫という話しは、実際には本当なのかどうか余り信じてはいませんでしたが、今回の見学で少しそうかもしれないと考えるようになりました。

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公園駐車場に地図があり、法専寺から山道を抜けてこの場所まだの「散策路」が書かれていました。
見たところ下草などの整備が少しまだのようですが、歩いても1kmくらいのようです。
気候がもう少しよくなったら、数人での散策もよいのでしょう。
一人は少し怖いかもしれませんので。




親鸞と茨城 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/19 09:48

明法房(弁円)の寺と墓(2)

 昨日の続きです。
親鸞の弟子二十四輩の第十九番目が 山伏弁円こと「明法房」です。

昨日は真宗本願寺派の「上宮寺(じょうぐうじ)」を紹介しましたが、今日は真宗大谷派の「法専寺(ほうせんじ)」を紹介します。
このお寺は常陸大宮市東野(とうの)地区にある寺で、山伏弁円が最初にこの地で修験場を開いた場所です。

弁円の素性ははっきりしないとされていますが、ここでは平清盛の孫と云われています。
正確には清盛と時子の長子で平宗盛の一子「能宗(よしむね)」その人だとされています。

吾妻鏡や平家物語では壇ノ浦の平家滅亡後に捕らえられて六条河原で切られたとされておりますが、こちらの言い伝えでは、

「能宗六歳の幼童なれば、源家の権勢を豊前に遁(のが)れ、暫く武門を去る。文治元年六月、父宗盛兄清宗親子は、頼朝の為、近江篠原にて斬らる。長じて修験道に志し、十八歳の年、洛陽聖護院宮親王に師事し、始め清円と号し、後に祖父清盛、保元戦功により、授かりし播磨守を持嘱し、豊前僧都播磨公弁円と改称せり。・・・・・・・・・・久慈西郡塔の尾村字楢原(今の常陸大宮市東野)に、戒壇を構え、法徳院と号し、寺領五百石を賜り、後に関八州総司となり、末派三十五坊を総欄し、門弟百余名を擁し、崇敬を得て、権勢国中を風靡せり。・・・・・・」(楢原山法徳院常陸法専寺略縁起による)
(これはお寺の御住職から頂いた縁起書の一部です)

となっています。

国道293号線を北上し、玉川交差点を左折し、100m先を右折してしばらく行くと法専寺の前に出ました。
隣に公民館兼用の大きめの駐車場があります。

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寺は山のふもとに立っており、山間の静かなたたずまいです。
山門が美しい。

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山門の左側に大きな石の碑が二つ置かれています。
右は「元之山伏弁円 明法御房之聖跡 開基往生の地」
左は明法房が板敷山で詠んだ歌が刻まれています。

「山も山 道も昔に 変わらねど 変わり果てたる 我が心かな」

この歌は石岡市の板敷山大覚寺の近くの裏山に碑が置かれています。(弁円懺悔の地⇒こちら

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この寺の山号など正式名は「楢原山法徳院 法専寺」です。
楢原山は上宮寺と同じですが、院号が「法徳院」となっています。
この地に弁円が開いた寺の名前です。

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山門にはこのような板と木槌がありました。
来客を知らせるためでしょうか。
しかしそのまま素通りして境内へ。

近くの立て看板などの説明文を読んでいたところ、寺の母屋から奥様が出て来られ、
「お茶をお持ちしますから少しお待ちください」と

境内には木で作られたテーブルと椅子があります。
すると今度はおてらの御住職が出て来られました。

少しお話をお伺いして、私のここに来た目的などもお話して。
その話の中で、
ご住職「今本堂が修理中で・・・・」
私「今の本堂は何時頃建てられたものでしょうか?
御住職「江戸時代は今の場所ではなくもう少し右側にあったのですが、明治の初めに取り壊され、こちらに建て直した」と
私「檀家さんなどはかなりおられるのですか?」
御住職「50軒くらいでしょうか、実はこの辺りは水戸藩の政策で寺はかなり減らされ、神道の御家庭が多いのです。ただ、寺の維持や道の整備などには皆さん協力して頂いて助かっています」

そんな話をしていると奥様がお茶とお菓子をもってこられました。

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温かいお茶と和菓子(桜餅)。 この桜餅は奥様の手作りとの事。
本物の桜の葉とあんこの入ったお餅。
とても和む子持ちの良さ・・・。
また寺の縁起書や寺宝の仏像などの説明書に弁円の墓所がこの裏山の向こうにあると言って、車で行ける道のGoogle地図も頂きました。

御塔に御馳走にまでなってしまい大変ありがとうございました。

常陸大宮市の観光説明書には「お茶を飲みながら人生を語る寺」と書かれていました。

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(宝物館)

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(工事中の本堂と裏山:この山の向こう側に弁円墓所がある)

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(本堂の扁額)

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(山門と寺の母屋)

頂いた弁円の墓所の地図を参考にこの裏山の向こう側へ。 次回へ



親鸞と茨城 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/18 08:56
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