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なつぞら(夏空)

 昨日は朝から夏空が広がり、大きな雲が沸きだしていました。

霞ケ浦はスッキリとした空で遠くまでよく見えました。

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三昧塚古墳に立ち寄り、雲を見上げて少しのんびりした気分になりました。

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暑い日が続いていますが、今日8月6日は立夏らしいです。 
まあ暑くても当然ですね。

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筑波山も、霞ケ浦もクッキリした気持ちの良い眺めでした。

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/08/06 05:06

平田篤胤と銚子

 天狗小僧の子孫が天狗湯を始めたのが千葉県の東端の銚子。

銚子の名前は酒を注ぐ銚子口に利根川河口の形状が似ているからだという嘘のような本当の話だ。
もっとも銚子の名前が使われだしたのは江戸時代のことなのでそれほど古い話ではない。

さて、この銚子周辺を今までに何回も歩き回っていると、天狗小僧寅吉の話(仙境異聞)を書いた国文学者の平田篤胤の名前を見ることがあった。
やはり何か関係があるのか?

私はあまりこの平田篤胤のことは知らない。
本居宣長の後継者的国文学者で復古神道の確立者といった事くらいがぼんやりと浮かぶくらいだ。

さて少し調べてみよう。

Wikipediaによれば、生まれたのは、秋田(出羽)の久保田藩の大番組頭(大和田清兵衛祚胤)の四男だというので、これは茨城(常陸国)とは関係が深い。
秋田の久保田藩は常陸国を制した佐竹氏が移った土地であり、代わりにそれまでの秋田氏などは常陸国にやってきた。
秋田の美人は皆茨城県から連れて行ったなどとのつまらぬ噂も広まった。

篤胤は秋田では養子に出され、父母の手で育てられず苦労して20歳になると、脱藩・出奔して国もとを飛び出し江戸にやって来た。
江戸でも苦学の連続だったようだが、25歳の時に備中松山藩士で山鹿流兵学者の平田藤兵衛篤穏(あつやす)に認められて養子となったとある。
26歳で結婚し、本居宣長の死後初めて国学を知り、国学の勉強を始めたというからかなり遅いスタートだ。
ただ、すぐに本居宣長の門人と自称したというからかなりの才覚の持ち主だったのだろう。

文化9年(1812年)37歳で愛妻を亡くし、幽界研究に興味をもち、復古神道研究に没頭していったようだ。
やはり愛するものを失ったことが霊界を信じる入口になったようだ。

篤胤は江戸での私塾だけでは物足りなく、その門人を広げる思いもあり、文化13年(1816年)に下総・上総を巡っている。
まず、船橋から神崎神社を廻り、東国三社(香取神宮・鹿島神宮・息栖神社)を訪れた。
そこから銚子・飯岡を廻って、天之石笛(あまのいわぶえ、いしぶえ)を手に入れて持ち帰り、これが現在代々木の平田神社に保存されている。

石笛

長さが50cmほどの石笛で石に空洞が空いて笛のように左右に穴がある。風が吹くと笛のように鳴るらしい。

ただこれは本当に笛のような形だが、この地方で見つかっている石笛はこのような形の物は少ないようだ。

銚子の少し南の玉崎神社はこの平田篤胤も神社裏に祀られているが、旭市の天然記念物として神社に置かれている「天の石笛」は次のようなものであった。

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平田神社に大切に保管されている「天之石笛」については、篤胤の弟子が著した 「天石笛之記」にこれを取得したいきさつが書いてあるという。

要約すると、篤胤が不思議な笛を手に入れる夢を見たという。
そして東国三社(香取・鹿嶋・息栖)参りの旅に出て、その足で銚子にやってきたときに、神社で夢に見たのとそっくりな石を見つけた。それは、神社に近所の海岸で見つけた村人たちが奉納したものだった。
それがほしくてたまらなくなった篤胤は神主に何度も頼み込んで譲ってもらったものだという。
そして、江戸にもどった篤胤は、屋号を「伊吹乃屋(気吹舎)」に改名したという。

「天の石笛」については飯岡などで昔話として語り続いている話がある。日本昔ばなしに収録された話が以下のサイトにある。

日本昔ばなしデータベース:天の石笛(あまのいしぶえ) 

時化の時にそれを知らせてくれた石笛だという。
自然にできた穴に大風が吹き始めるとそれが笛のように鳴ったという。

篤胤はこの三社めぐりの翌年も下総などの旅をしている。
天狗小僧寅吉にあったのは三社めぐりの翌々年であった。

篤胤が江戸で屋号を「伊吹乃屋(気吹舎)」に改名したというのがこの笛を得たことだというが、息栖神社境内に置かれた芭蕉の俳句もきっと頭にあったことだろう。

 『 この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し 』 (芭蕉)

この気吹戸主は江戸時代はこの息栖神社の祭神で 黄泉の国から逃げ帰ったイサナギが汚れを水の流れで洗い流した時に、その流れから生まれた神という。

息栖神社はこのように汚れた土地を清浄化して蘇生回復の力があるのだという。

東国三社は直角三角形の頂点に配置された神社で、鹿島・香取の両神宮を弓の弦として息栖神社から矢を射ると石岡、筑波、岩間方面に矢は飛んでいく。
岩間山の十三天狗が活動していたあたりに行く。 これも何かの関係がないとは言い切れない。

もっともこの直角三角形に配置したのは息栖神社を大同2年(807年)に少し移動したからで、人工的に配置されたものだ。

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このあたりのことは昔書いた下記の記事などを参照ください。(まあ大昔の記事で内容も恥ずかしいが)

常陸から見た日本の夜明け: 


天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/08/03 06:05

銚子の晴明伝説

 千葉県銚子市で「天狗湯」なる銭湯のあった場所を探し、銚子駅の東側を細かく散策してきました。
そして、この銚子に伝わる一つの伝説に何故だか興味がそそられてきました。

銚子に伝わる伝説といえば犬吠崎や犬岩などに残された「源義経伝説」がありますが、これはこの銚子市の中でも一部の海岸などに伝わっているものです。
しかし、陰陽師安倍晴明伝説は銚子市の西北端から東南端まで幅広く晴明が動き回っているのです。

では、この晴明伝説を紹介しましょう。

 千葉県の銚子の一つ手前「松岸駅」に近い垣根町の海上小学校のとなりに「長者山仁王尊阿弥陀院(根本寺)」というお寺があります。
入り口の門柱にも「長者山」と書かれています。
ここ長者山と名が付いたのは、この場所に昔の海上郡で一番の長者が住んでいたことによります。
この長者にまつわるお話です。
この長者屋敷は「垣根の長者屋敷」と呼ばれていました。
長者の名前は「根本右兵衛義貞」といいました。
垣根の長者、海上郡随一の金満家であった根本右兵衛義貞には一人娘「延命姫」がおりました。

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(垣根町にある長者屋敷跡に建つ 長者山仁王尊阿弥陀院 仁王門)

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(阿弥陀院の阿弥陀堂)

平将門の乱討伐のために筑波に足を運んでいた右大臣藤原師輔に見いだされた安倍晴明は、時の天皇に寵愛され才能を発揮します。
しかし、天皇を取り巻く政争にまきこまれ、 身の危険を感じた阿倍晴明は都を脱出し 故郷の筑波山麓にもどっていました。

西暦986年 、筑波に戻っていた阿倍晴明はさらにこの銚子に逃れてきてこの長者屋敷に泊まりました。
そこで垣根の長者の延命姫と出会い、姫が晴明に一目惚れしてしまったのです。

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(阿弥陀院境内に立つ 延命姫供養塔 隣りに長者供養塔もある)

しかし延命姫は、生まれながらにして顔の左ほほ全面にアザがあったのです。
父の義貞は、裕福な資産家であり、娘のために安倍晴明に自分の財産を全て提供し、娘との結婚を願い出ました。
都から逃れてきていた安倍晴明は、最初はしぶしぶ延命姫との婚姻を約束するも、やはり次第に後悔しはじめ、延命姫のもとから逃げ出してしまいました。

晴明は、垣根屋敷から利根川に添って少し下流の「今宮」にやってきました。
そして、そこから対岸の波崎にわたろうとしましたが、海(川)が荒れていて渡れません。
そのため、晴明は飯沼観音へ逃げて、更に東の和田不動尊(和田山不動堂)に晴明は駆け込んだのです。

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(飯沼観音)

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(和田山不動尊入口)

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(和田山不動堂)

それでも姫は晴明を諦めきれずに必死にその後を追いかけました。
姫は常世田薬師堂(常灯寺)に 三日三晩 籠もり、晴明がいる場所を知らせてほしいと願掛けをしたのです。

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(常世田薬師堂 比較的最近まで茅葺屋根の立派なお堂でしたが銅版葺き屋根に改修されました。)

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(薬師堂の横の土壁には奥へ続く洞窟があります。その側壁にはたくさんの薬師様が祀られています。)

晴明は、逃げても逃げても延命姫が追ってくるので、ついに屏風ヶ浦の小浜の地(現在の銚子市と旭市との市境に近い海岸)まで逃げたところで一計を案じたのです。 
自分が死んだように見せかければ姫もきっとあきらめると考えたのです。

屏風ヶ浦の「通漣坊(つうれんぼう)」に着物と履き物を脱ぎ捨てて、断崖絶壁の崖の上から海に飛び込んだように見せかけ、自身は近くの新田の明王山真福寺に身を隠しました。

追ってきた延命姫は、通漣坊にぬぎすてられた着物と履き物をみて、晴明が身を投げたものと思いこみ、自らもそのあとを追って身を投げてしまったのです。

この真福寺には、晴明が隠れたといわれる小さなお堂(晴明堂)が遺されています。(お堂はあとから建て直されたものでしょう)
また、姫が海に飛び込んだことを知った晴明が罪滅ぼしのためにここで荒行をしたといわれています。

また延命姫が身を投げた「通漣坊」は、 千葉縣海上郡誌に「潮漣洞」として下記のように紹介されています。
「豊岡小浜磯見川の河口にあり、潮汐 沿岸を洗い、岩石為めに穿(うが)たれて一の大なる竈(かまど)形の空洞を生ず。
一洞崩壊すれば、随って一洞を生ず。  世俗之を「延命淵」と称す。
数十年前には、川の左右両岸に大小二個あり。
小なるを「女竃(めがま)」と称し、大なるを「男竃(おがま)」と称せり。
海上浪(なみ)高き時は、侵入する潮汐、恰(あたか)も長鯨(ちょうげい)の水煙を呼出するが如く、実に奇観なり。
遠近伝えて奇異の顕象となし、夏季観客常に絶えずという。」」

 また、ここの名前の「延命が淵」については、この安倍清明伝説をそのまま紹介して、この空洞はこの延命姫が身を投げたときにできたものだとの伝説を紹介しています。
 
 この「通蓮洞」は、「旭市」との市境にあり、銚子市小浜側の「男竃」は「小浜通蓮洞」、旭市上永井側の「女竃」は「上永井通蓮洞」と呼ばれていたそうですが、「男竃」は侵食により明治30年代に消滅し、「女竃」も昭和30年代まで一部が残っていたそうですが今は見ることが出来ません。
また岩が潮を噴き上げる壮観な景観の場所であり、素晴らしい風光明媚な場所であったそうです。
現在も歩いてこの海岸淵に下りられますが、昔の洞窟などはなくなってしまっているようです。

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(飯岡灯台:刑部岬)

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(東洋のドーハー:屏風岩)

 さて、海に身を投げた延命姫の髪の毛は銚子川口の岩(千人塚の付近)にからみつき、歯と櫛が川口の地に打ち上げられたのです。
そして、その歯と櫛を川口の丘に埋めて祀られました。これが現在の川口神社です。
この川口神社は伝承によれば最初「歯櫛明神」とよばれ、それがいつしか「白紙明神」と名が変わり、明治3年には現在の「川口神社」に改名されたといいます。

この延命姫は顔にアザがあったのですが、この川口神社に櫛や鏡などを納めて祈願すれば、女性は美しくなり、神社にある「白」をつけるとアザがきえると信仰されてきたそうです。

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(川口神社:白神明神)

さて、安倍晴明は平安時代の陰陽師としてその名を知られていますが、出生についてはいろいろな説があります。
大阪の安倍晴明神社のある阿倍野区というのが有力とされているのですが、茨城県の筑波山の麓である旧明野町猫島(現筑西市猫島)で生まれたとする説もかなり有力なのです。
晴明のことが書かれている最も古い歴史的文献「ほき抄」がその証拠と言われています。
平将門がいたのもこの近くです。

この海上国が常陸の筑波山の麓地方と関係があったことを伺わせる話であることが興味をそそります。

坂東三十三観音の霊場は、
第25番 筑波山 大御堂(つくば市)
第26番 南明山 清瀧寺(土浦市)
第27番 飯沼山 円福寺(飯沼観音)(銚子市)
と土浦市の筑波山の麓よりこの銚子の飯沼観音へと続いており、昔は水路で人の流れもつながっていたように思われます。

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天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/08/01 18:43

霞ケ浦と夕焼け

 仕事帰り、目の前に久しぶりの赤い夕陽が迫っていた。

真沈むには余裕がありそうだと思い、湖畔に車を向けた。

しかしあっという間に雲に隠れてしまった。

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ここは霞ケ浦湖畔に砂浜を復活下「ほほえみの丘」

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霞ケ浦の自然 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/27 15:01

天狗湯を探せ!(その七)

<いよいよ天狗湯の場所判明>

 前回からまた1週間以上たちました。
天狗湯の大まかな場所はわかったので、そろそろ具体的な場所の特定をしたいと思います。

その前にすぐ近くの銚子電鉄の「本銚子(もとちょうし)駅」に行ってみることにしました。
ここは一昨年(2017年)夏の24時間テレビで地元の小学生からの希望で、ヒロミが駅舎をリニューアルしていた場所ですので覚えている方も多いのではないかと思います。

銚子電鉄はぬれせんべいでも有名になりましたが、銚子から外川までの短い区間を運航している路線で、ほとんどの駅が無人駅です。

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ここ本銚子駅も無人駅で駅前広場なるものはありません。
山の上を切り開いた切通しの中に、1923年(大正12年)に線路が敷かれ駅舎もその時に建てられたという。

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これが24時間テレビで新しくリニューアルされた駅舎。
何ともかわいらしい。
地元ではきれいになってよかったという声が多いようだが、大正末期の駅舎の雰囲気が損なわれたと嘆く鉄道ファンもいるという。

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駅内部の待合室。

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タイルと子供たちが製作したステンドグラスが飾られていた。

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外壁は赤レンガで、結構大正ロマン風に工夫されていた。
これはこれでいいんじゃないかな。

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跨線歩道橋「清愛橋」上からは眺めた駅舎と線路
もちろん単線です。

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銚子電鉄の駅は赤字解消のため、駅名をネーミングライツで募集し、いろいろ変わった名前がついている。
ここも時々変わりますが、現在は「上り調子 本調子 京葉東亜薬品」となっていました。

ちなみに隣の「笠上黒生(かさがみくろはえ)駅」は「髪毛黒生」となっています。
ちょこっと笑ってしまいますね。

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ここから次の笠上黒生駅までは切通しで紫陽花が目を楽しませてくれるという。

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直ぐ駅の横にある市立清水小学校です。
駅前で少し広々しているかとも思いましたが、広場もなく狭い道でした。

さて、本題に戻って、やはり年配の近くに住む人を見つけて訪ねてみようと思い、清水坂下信号から一方通行を下りたあたりで聞いてみることにしました。
それにしてもあまり聞けそうなお店もなく、歩いている方もほとんどいません。
たまに軽トラに乗ったおじさんが通るくらいです。

そんな中ふと見ると魚の卸か何かをやっている店の中で年配のお年寄り(女性)が一人で作業しているのが目にとまりました。
なかなか声をかけづらいのですが、思い切って声をかけてみました。

「すみません。 昔このあたりにあったといわれている天狗湯という銭湯を探しているのですがご存じありませんか?」
「はいはい よく知っていますよ! 車ですか?」
「車は少し離れたこの先の空き地に停めて、歩いてきています。」
「じゃあ 案内しますよ。」
「え! 本当ですか?ありがとうございます。」

そのおばあさん腰もしゃんとして、家から出てきてすたすたと歩いて道案内してくれました。
結構お歳も召されていると思うのですが、軽い足取りで前を歩いていきます。

店から出てすぐに細い道を曲がって、この先きだというのです。
そして上の通りに出る上り階段をそのまま登っていくではありませんか。

そう、ここは前に上から見ていたお屋敷のところです。
そして、上の通りまで上がる前に、「ここから入ったんですよ」と門を指さしてくれました。

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竹で組んだ塀に門も趣があります。
そして中はシダのような草が生い茂っています。
門の扉につけられたマークもとても印象的です。

このあたりの家やお店などでも同じような家紋?をよく見かけます。
丸に木瓜紋(もっこうもん)?ではないかと思います。
またもしかしたら天狗小僧寅吉が異界において見聞した七生舞(御柱舞)の図を表現したものかも・・・・

「あっ! ここは塾の貼り紙がしてある家ですね。」
「そう、前に若いお兄ちゃんが塾をやっていたの。 もうやめちゃったのかしら・・・」

それからこの手前の家も確か後から別な方が建てて、今は住んでいないのだけれど、近くにいますよ。
しかしこちらの天狗湯の方は今はどこに関係した方がおられるかは知らないようでした。

おばあさんにここまで上がってきてもらい大変感謝してお礼を言い、分かれた後写真撮ってきました。

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屋敷内には古木や竹林があり、かなり昔裕福な方がいた別荘と言った雰囲気です。

天狗湯03

屋敷のまわりは竹の垣根で仕切られており、いい雰囲気です。通りからは見下ろすような感じです。

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上の街道からは別に門があり、屋敷にはこのように下へ降りるようになっています。
通りからは見下ろすような感じです。

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この感じだとつい数年前まではここで塾を開いていたのではないかとさえ思えます。
でもこの塾は2000年の電話帳には載っていましたが、2007年の電話帳には記載されていませんでした。
ということは辞めてから10年以上経つのかな・・・・

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門扉は簡単に開け閉めできそうなので、せっかく来たのだから少し下に降りてみましょう。

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郵便ポストも残されていました。最近まで使っていたかのようです。

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屋敷にはクーラー(屋外機)が設置され、「伸学セミナー教室」という貼り紙がまだ残っています。

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裏には竹林がありちょっとした趣のある家です。

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しかし、建物の裏側に廻ってみると、残念ながらかなり破損していました。
もったいないですね。
銚子市でも残してほしい建物だと思います。

また、銭湯をしていた建物はこの建物の横にあったのかもしれません。
少し草に埋もれた建物の跡もあるように見えました。

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この上の通りから下の街を眺めたところです。
天気があまりよくなかったので常陸の方は良く見えませんでした。
きっと昔は風光明美な場所だったのでしょう。

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(住所は銚子市清水町2726です)

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それにしても元気なおばあちゃん(丸亀鮮魚店さん)ありがとうございました。

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(2019年7月16日)


<エピローグ>

7回にも分けてこの天狗湯探しのお話を書いてきましたが、このあたりで終わりにしましょう。

最初は常陸国の岩間山に伝わる13天狗の話からこの天狗小僧の子孫が銚子で銭湯をやっていたという情報を頼りに、ちょこちょことゆる~く探す紀行文を書いてきたのですが、途中からゆる~くしすぎて締まりのない文章になってしまいました。
でも私のブログの多くがこんな調子で、行く先々で気になったところを掘り返し(調べ)、そこで過ごしてきた昔の人たちの気持ちや生活を想像することによって「本当の姿や小さな歴史を見る」ということにあります。

現代社会は一見便利にはなりましたが、機械的に作られたような世界で、あまり面白みがないんです。
そして歴史的には嘘も多く、それがまた本当のことのように語られていたりします。
明治維新以降はこの国の歴史が大きく変えられてしまいました。廃仏稀釈がそのよい例です。

でもやはり昔の姿を見ることができないのですから、このように歩き回ることで何かの真実らしきものに行き当たります。
今回の真実は何か?

それは人それぞれで、この先を知りたければ自分の足で調べるのがいいでしょう。
図書館でも、住所登録の台帳でも、知っている人を探すでもいろいろな方法はあります。
これはほんの入り口を示しただけです。

各地域に埋もれた歴史が隠されています。そんなものをこれからも探して行きたいと思います。

最後に近くにあった「割烹いとう」さんにランチでお邪魔しましたので紹介しておきましょう。

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この割烹とある料理屋さんは地元の漁師との間で魚を仕入れているようですので魚が新鮮なのが売りです。
場所は天狗湯の直ぐよこなのです。
店ののれんにつけられた紋も天狗湯跡の扉の紋と同じようです。
これは丸に木瓜紋(もっこうもん)でしょう。
気になってからはこのあたりの家などにも同じ家紋がつけられた家が多数ありました。

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比較的昼には早い時間でしたが、女性のおばさんたちの4人組がにぎやかにおしゃべりしていました。
正面のテーブル席に案内されましたが、そこから港や波崎の方が良く見渡せます。

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窓側におすすめメニューが書かれていました。
やはり割烹料理屋さんですからランチメニューはありません。

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すぐにお茶とおしぼりに一般のメニュー表を持ってきてくれました。
まあそれほど高くはないですね。
比較的リーズナブルでしょう。

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刺身定食(1200円)をいただきました。

やはり魚は美味しいですね。
地元で40年以上魚料理の店を続けているそうです。

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となりのご婦人たちが出された料理に感嘆の声を上げていました。
でもどんな料理が出されたのかは知りません。

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この店からの眺めはいいです。
天狗湯も昔はこのような眺めが見られたのかもしれません。
この日は天気も良くなり、利根川の向こう岸の常陸国(波崎)の風車もよく見えました。
隣りにあった天狗湯さんのことも訪ねてみましたが、名前は聞いて知っているそうですが、あまり詳しいことはご存じないとのことでした。このお店も40年ほど前からやっているそうです。

天狗湯の深探記はひとまずこれで終わりです。

天狗湯を探せ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/07/27 06:39
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